絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅱ

西野の分岐点

「ふうー……」
 西野誠二は膨らませた頬から勢いよく息を吐きながら、レジカウンター端のポスレジの画面を見つめる。今日はまだまだだ。午後の食事を済ませてフロアに出て来たのが3時、これから閉店までの流れを考えると、なかなか厳しい数字になりそうな予感がする。
 一通り睨み終えると、顔を上げ、店内隅のここから、見渡せる限りのフロアの広さにまた溜息をつく。
 ここは、家電専門店。ホームエレクトロニクス東都本店。2千坪あるフロアはまるでホテルのような内装で、ピシッとキメ揃った黒の制服で従業員が販売を行い、顧客の接客への満足度だけを重視した店である。上質のサービスを武器とし、他店の値段には合わせず、独自の路線で店舗数を増やしている優良な一部上場企業である。ホームエレクトロニクスの常連客になるのが裕福層のステータス、というのが主な狙いで、価格は下げないが、ここで買い物をしてこその満足感というのを常に追い続けている会社だ。商談カウンターに座るだけでオレンジジュース、契約ブースでは高級チョコレートが当然のように出て来る。そこまでして、価格を気にせず、気持ちよく買い物がしたいという客は、実は庶民の予想を遥かに上回る数で存在しているのである。
 この店で西野は、月間売上額トップ3に必ず入る、店の柱とも言える販売担当者として勤務している。入社して3年、ただ、「お客様に最高の親切を」という会社の信条が自分にぴったり合ったおかげで、今の自分があると信じている。
 そう、絶対に売上の額を見てはいけない。
 客の顔を見るのだ。
 そうすればおのずと数字が付いてくるし、そういう自分でありたいと願っている。今しがた、本日の売上情報を見て溜息をついたばかりだが、それは誰にも見えない自分であって、表は、誰よりも親切丁寧な一従業員でなければならないと強く思っている。
 時として、客によって、多少の値引きに応じることもあり、近隣店舗の価格競争が気にならないわけではないが、そこについてくる客などいない。
 そう言い切ることで、毎日のワイシャツのクリーニング代を必要経費として考えることができるのだ。
「あれっ、西野さん、なんかいい匂いしません?」
 ふらっと寄って来た主婦は、その鋭い勘を見事に発揮させる。
「あー、朝赤ちゃん抱いてきたからかな。最近生まれたんですよ、家族の」
「えー! 西野さん、結婚してたんですか!?」
 いや、そう言われるのが嫌だったからあえて「家族の」って付けたんだけど。
「いや、家族の違うカップルの」
「え? それってお姉さんの、とか?」
「俺ルームシェアしてるから全然関係ない人」
「へえー、……女の子の赤ちゃんですか?」
「ううん、男」
「西野さんも早く欲しいなって思うでしょう」
 何が楽しいのか主婦はにやにやこちらを見る。
「いや、でも大変かなあ。夜鳴きとか……」
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