三日月の下、君に恋した
 菜生がこれを返してきたということは、やはり自分に絵を描けと言っているのだろうか。


「私にはもう……必要ない」


 忌まわしいもののように、羽鳥はそこから目をそらした。

 自分の絵をほんとうに心から求めていたのは、彼女ひとりだったと今でも思う。

 この世界から彼女が消えたのなら、もう必要ない。

 自分の描いた絵など、存在する意味がない。


「そうでしょうか」

 聞き間違えたのかと、羽鳥は一瞬思った。いつもおだやかな彼女とは別人のような、強く主張する激しさを秘めた声だった。


 羽鳥の目の前に、スケッチブックを差し出す。


 長年の付き合いで、秘書が持ち前の頑固さを表に出すときは、下手に逆らわないほうがいいとわかっていた。

 羽鳥はスケッチブックを受け取り、何げなく表紙を開いた。


 白いはずのページに色がついていた。


 どこか懐かしい古い家並みの風景が、水彩のスカイブルーを主にして丁寧に描かれていた。

 羽鳥は言葉を失い、ページをめくった。


 次のページは、群青の夜空に咲き乱れる満開の桜だった。

 その次のページをめくると、秘色に沈んだ雪景色だった。

 次も、次も、次も。


 スケッチブックのすべてのページが、青い世界に彩られていた。
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