三日月の下、君に恋した
 菜生はなにか言おうとして口を開いたものの、言葉が出てこない。ただポカンと口を開けたままの菜生の顔を、彼は無表情に見下ろしている。

 エレベーターの中に気まずい沈黙が流れる。もう死にたい。

 菜生がうつむいたとき、頭の上でかすかに笑うような声が聞こえた。おそるおそる顔を上げると、彼がほほえんでこちらを見下ろしていた。

「降りないの?」と、彼が言った。エレベーターが停まっていて、ドアが開いている。彼の片手が「開」のボタンを押してくれているのを見て、菜生はあわてて降りた。


 心臓が跳ね上がって、胸の壁をドンドン叩いている。恥ずかしくて息ができない。

 ビルの玄関はすでにシャッターが下りているので、社員専用出口に向かう。菜生はふりかえらずに、足を速めた。一刻もはやくこの場から逃げ出したい。


「あのさ」

 出口の手前で突然、後ろから声をかけられた。何を言われるのだろう、と菜生はこわごわ振り向いた。

「俺もお腹空いてるんだけど。よかったら一緒になんか食べにいかない?」
< 5 / 246 >

この作品をシェア

pagetop