三日月の下、君に恋した
 いつも普段着だったし、雰囲気がまるでちがっていたから、まったく気づかなかった。公園での彼は、会社案内やホームページに載っている風格のある写真とは全然ちがう。

 おだやかで、構えた感じなどなくて、公園に来ている子供たちに気安く声をかけるような、どこにでもいるやさしいおじさんだったのだ。


 どうしよう。


 社員のくせに、社長とも知らず近所のおじさん扱いしてしまった。


 気づかれないことを祈るしかなかった。

 大丈夫。社長は百一〇〇%気づいていない。


「専務って、三十六だって。結構イケメンですよね。今日は一日、社内を見学するらしいですよ」

 美也子が仕入れてきた情報は、ちっともうれしくなかった。


 混乱する頭の中を必死に整理しながら、心配するほどのことはないのかもしれない、と菜生は考えてみた。

 あのときの自分は普段着で、しかもノーメイクだった。ちょっとすれちがっただけで、たいした会話も交わしていない。どこにでもいるような女のことなど、いちいちおぼえていないだろう。


 だけど、専務は気づいたようだった。

 午後になると通販課のあるフロアにやってきて、部長が仕事内容を説明しながら専務を案内して回っていたとき、彼が菜生に目を止めてあの冷ややかな薄笑いを浮かべるのを見たからだ。


 最悪の事態になった。


 菜生は翌日、専務室に呼び出された。
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