万年樹の旅人

 風がある。微かにだが、どこからか風が細い隙間を通ってやってくる音が聞こえる。壁も天井も見当たらない、暗い暗い場所。岩もなければ木々もない。もちろん人の姿を見たことなど一度もなかった。自分の体だというのにひどく不安定で、今にも底なし沼に落ちていくのではないかといった恐怖に襲われる。そんな無に近い空間の中で、風が岩にあたる音がきこえるのだ。ヒュウヒュウと、風の泣く音が。

 そして目の前の獣が吐く息が、ひどく生温かい。

 緊張と恐怖。いつもと違う夢の展開に、ユナの額には珠のような汗がいくつも浮かんだ。それらを獣の臭い吐息が冷やして、汗で張り付いていない部分の黒い髪をふわりと舞い上がらせた。

 崖の上を綱渡りしているのかと思わせる表情だった。

 子供らしい丸みを帯びた顔の輪郭と、反面、すっと通った鼻筋も、どこか暗い色をたたえた黒目の大きな瞳も、どこか子供離れしていて、ふと目が合った瞬間、どきりとさせられる印象を与える少年だった。

 今にも泣き出しそうなくらい、表情を歪めているのに、その恐怖を必死に我慢しようと唇を噛む。

 心のどこかで少し油断していたのだ。所詮は夢なのだ。どれだけ鋭利な爪も、きっと自分の喉に届いてしまう前に、目が覚めるだろうと。届いたところで、痛みも痒みもないんだ。音が聴こえないように、においを感じないように。ただ目が覚めてしまえば、後味の悪い心地だけが残るのだろうと、ずっと確信していて疑ったことなど一度もなかった。

 だが、音とにおいを感じた途端、ユナはたとえようのない焦燥感に襲われた。それは死に対する恐怖に似ている。

 体中に流れる血が沸騰したかのように熱く、そして一気にそれらが引いていくのがわかった。ひやりとした汗が、眉間や背中を伝っているような気がした。怖い。怖い、と叫びたくても声は出ることなく、かすれた呻きのような吐息を洩らすだけだった。
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