ひとまわり、それ以上の恋
「……ごめん。君を泣かせるつもりじゃなかった」

「ちがう……んです」

 私の方が意識しすぎていないだろうか。
 きっとお父さんが生きていたらこのぐらいかもしれない、なんて。

「私、お父さんがいないんです。中学の頃、亡くなってて……」

 市ヶ谷さんはますますバツの悪いような顔をした。

 彼を責めたくて告げたわけじゃない。ただ、理想の父親、という言葉を聞いて、張りつめていた糸が切れたみたい。

「申し訳なかった。簡単に言うべきことじゃなかったね」

 彼のキレイな睫毛が伏せられて、私の方が申し訳なくなる。

「そんな、だから違うんです。市ヶ谷さんは、悪くなくて……」

 そればかりか、あなたをお父さんのようには見られない……そんな風に思っているのに。

 言い訳を塞ぐように、ぐいと抱き寄せられて、何が起こったのか一瞬分からない私を、やさしく宥めるように髪を撫でた。

 仕立てのいいスーツから、清潔感のある甘い香りがした。
 私が、ときめいてたまらない彼の香りは、フレグランスか何かではないみたい。

 やさしくて、淡くて、触れたら、桜の花びらみたいに、飛んで、消えていってしまいそうな、儚さで包まれてる。




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