結婚したいから!

その後判明した事実の報告

…だからって。だからって。

完全にむくれた顔になって、隣を歩く理央さんをちらっと睨んでみる。

「ん?」

全く効果がないみたいで、かすかに短い髪を揺らして首を傾げてくる。

ん?じゃないし!!

理央さんは、あの後は、何事もなかったかのようにさくさくと書類をまとめて、お客さんと会って、5時には事務所に戻ってきた。


「じゃ、行こうか」

鞄を持つ理央さんを見て、定時に上がるなんて珍しいな、って思ったけど。わたしと一緒に帰るのだって、初めてだな、って思ったけど。

「えーっと、260円ね」

駅の運賃表を見上げて、さっさと2枚の切符を買い、1枚をわたしに手渡したあたりから、なんか嫌な予感がしていた。
振り返りもせずに、さっさと歩いて行く理央さんが、階段を下りてたどり着くホーム。嫌な予感は予感だけで済みそうにない。

乗った電車でも、理央さんはあくまでいつも通り、手帳を見て明日のスケジュールなんかを確認している。

「あ、降りるよ」

ぱたんと手帳を閉じて、開いた扉から飛び出す理央さんに、嫌な予感が完全に的中したことを思い知った。


「ちょ、ここで、何の用事があるのか、説明してください!!」

こ、この駅は。

この駅では降りたくない!玲音さんのお店の最寄り駅じゃないですかぁ!!


扉の傍のバーにつかまって下りまいと抵抗したものの、あっさり指をベリベリと1本ずつ引きはがされた。

ほっそいくせに怪力!!

「用事があるのは、私じゃないの。海空ちゃんでしょ」

「わ、わたしだって、用事はないですってば…」
駅の構内を、カツカツ景気よく歩いて行く、パンツスーツを身にまとった理央さん。かっこいいなぁ。客観的に見ても。

はあ。わたしが理央さんにかなわないのはこのカッコよさだけじゃなくて、腕力でも勝てないらしい。もちろん、仕事は論外。

どうしたら、こんなふうに堂々と歩けるようになるのかなぁ…。


ぼんやりと理央さんに見惚れながら歩いていたから、誰かが立ち止まってわたしを見ていることにも、全く気がつかなかった。


「なあに?あなた、うちの九条と知り合い?」

聞いたことのないような厳しい声がして、はっとすると、理央さんが立ち止まって、誰かに話しかけていた。


「理央さん?」

慌てて、数歩先に立ち止まっている理央さんに駆け寄る。
彼女の前に立っているのは、まさかの、…早川千歳さんだった。


本当に、会えるなんて。
理央さんが意図したとはいえ。
まさかまさか、彼女の顔を見ることができるとは、思ってなかった。

だって、わたしは、彼女が電車通勤をしているかどうかも知らない。していたとしても、どの線を利用しているか知らない。今日の仕事がいつ終わるかってことだって、知らない。

だから、会えないなら、会えなければ、理央さんの気も済むだろうって思ってる節もあった。

それなのに、なんで、会えちゃうんだろうな。今まで一度もお店以外で会ったことないのに。


「海空さん。なんとかして、会わなければ、とは、思ってました」


早川さんは、うんと低い声でそう言った。顔は真っ白で、マスクをしている。本当に具合は悪そうだ。

「お仕事が終わったら、連絡ください」

早川さんが、ちらりと理央さんを見た後、手帳を開いて、自分の電話番号を書きかけている。「いいよ、九条さん。今日はキリもいいことだし、残りは明日にしましょう。わたしも直帰するから。おつかれさま」

理央さんは、そう言って、会話に割り込む。わたしにはにっこり笑い、早川さんには小さく会釈だけすると、再び改札口へと消えていく。

理央さん。行かないで、って言いそうになった。


怖い。


早川さんとふたりになるのが、怖い。


彼女と会う気にならなかったのは、そのせいかもしれない。

得体の知れない人。何を考えているんだろう。どうして、こんな状況になってしまったんだろう。大山さんの言う通り、彼女のお腹の中には、ほんとうに赤ちゃんがいるんだろうか。


―――殴っちゃったりしたら、どうしよう。


そんな言葉が浮かんできて、この恐怖心にもう一つの理由があったことに気づかされた。ああ、そっか。わたし、早川さんとふたりきりになったときの、自分自身も怖いんだ。

怒鳴っちゃっただけでも、ストレスで赤ちゃんの具合が悪くなったら?怒鳴るだけで済めばいいけど、万が一、妊婦さんを、突き飛ばしたりしちゃったら?

頭の中に浮かぶ映像が、あまりに鮮明で、目眩がする。


「大丈夫?歩ける?」

そっと、冷たい手が、わたしの手を引いた。


反射的に、その手を払ってしまったのは、びっくりしただけじゃない。

「ごめんなさい。歩けます。大丈夫ですから。どこで、話しましょうか」

しっかりしているふうを装ったけれど、上手く行っただろうか。


早川さんは、頷いただけで、歩き始めるから、わたしも黙ったままで、彼女の後ろをついていく。


あの、手が、指が。

わたしの手に触れた一瞬で、玲音さんのことを強く思い出させた。
彼女の手が、玲音さんに触れたのだと思ったら、初めて、体が焼けるんじゃないかってくらい、真っ黒な感情が沸きおこってきた。


嫉妬だ。


わたしだって、全然、ヤキモチを妬いたことがないわけじゃない。

でも、嫉妬としか言い得ない、ドロドロして熱くて激しい感情で、しかもここまで激しいものを感じたのは初めてで。どうコントロールしたらいいかもわからない。

というより、コントロールは早々に放棄して、自分の理性が突き破られないことだけを祈っているみたいな状態。

古典の授業で、源氏物語に出てくる六条御息所って人のことを思い出す。思い人の光源氏に、嫉妬深いって理由で疎まれる人。あの人の嫉妬って、こういう激しいものだったんじゃないか、って。―――にしても。ここは、どこ?

「…な、なんで?」

どうして、わたしがこんなところに来なくちゃいけないの?

無意識のうちに、まわれ右したら、遠慮もなく早川さんが、がしっとわたしの鞄を掴んだ。

…なんて、無神経!!

ぐいぐいわたしを引っ張って、早川さんがやってきたここには、「原島産婦人科」の看板が出ていた。


「もぉ、ひとりで行ってくださいよ」


早川さんの後姿を睨みながら、そう言うと、彼女はようやく立ち止まり、わたしの顔をじっと見つめてくる。


「あたしが、妊娠してるかどうかは、あなたと話をするうえで重要だと思うけど」

…まだ彼女も知らないんだ。


でも、玲音さんと、そういうことがあった、ってことは、確かなんだ…。

彼女の発言は、暗にそれをわたしに伝えているのだ。看板を見てぶっとんでしまっていた、真っ黒なもやもやの感情が、またあっという間にわたしの心を覆っていく。

みるみるうちに、抵抗する力も失せて、人形みたいに引きずられて、病院の中に入った。


病院の中には、お腹の大きい女の人も何人かいて、やがて早川さんのお腹もあんな風になるんじゃないかって思うと、胸がずきずきした。淡いピンク色の壁紙も、妊娠に関するいろんなパンフレットも、わたしの心をささくれ立たせるだけだ。


…それにしても。

早川さんは、ずいぶん体調が悪いらしい。

30分弱の待ち時間のうち、2回もトイレに行った。マスクの上からもタオルで口を押さえながら、戻ってくる彼女の顔は、真っ青だった。

早川さんが、問診票に書いた、「最終生理開始日」の日付は、2カ月も前だった。

この、早川さんの様子と、あの、日付。頭の中だけで想定していたことが、次第に現実味を帯びていく。
診察室に呼ばれた早川さん。すぐに出てきて、またトイレに行くと、わたしの隣に戻ってきた。

「早川千歳さん」

再び診察室に呼ばれたとき、またしても突然、ぐぐっと鞄を引っ張られて、びっくりした。


「ひとりで行ってくださいってば!」

「あたしが、『妊娠してるから、玲音くんと別れて』って都合のいい嘘つくとか考えないの?」

こちらを見もしないで、一息に言ってしまうと、わたしの返事を聞くこともなく、そのまま診察室に入ってしまう。


パタンと閉まった扉の中、人の良さそうな笑顔を見せた、先生らしき、おばあちゃんが少し不思議そうにわたしを見る。

「妹です」

はっ?

全然似てないのに、ああ、と納得した様子をみせた先生は、すぐに、

「妖精です」

と言った。わたしは、怪訝に思って、隣の丸椅子に腰かける早川さんの顔を見たけど、彼女は先生の顔を凝視したまま微塵も動かない。「体を大切にしてね。また今後のことをパートナーに相談してから、来てください」

妖精じゃない、「陽性」、だ。


陽性って、たぶん、いや、間違いなく、妊娠してるってことなんだ。


早川さんは、問診票の未婚の欄に○をつけていたから、先生は、ああいう言い方をしたんだろうな……。

おめでとうの言葉も、笑顔もない、懐妊の事実だけの報告。

目の前で、それを言い渡される早川さんの姿は、いつもより小さく見えた。


わたし自身も、ほとんど覚悟はできていたはずなのに、呆然としていて、どちらも何の言葉も話せないまま、病院を出たのだった。
全国展開しているコーヒーショップ。

そこでも、早川さんは水を口にするだけだ。席に案内されてすぐ、小走りでトイレに消えていく彼女の姿を、いまだにぼんやりした頭でなんとか確認する。

…お母さんになるって、大変なんだ。

赤ちゃんが、ああやって、「お腹にいるよ」って、早川さんに猛烈にアピールしてるみたいだ。

戻ってきた早川さんは、ちょっとマスクをずらして、また一口だけ水を飲んだ。


「ずっと、玲音くんのことが好きだった」


かすれた声は、さらさらして綺麗で、するりとわたしの耳に入ってきた。はっとして、見つめ返した彼女の瞳は、とても澄んでいるように見える。

わたしに、話してくれる気なんだ…。
「専門学校時代から、ずっと。当時から、かっこいいし、人当たりも良くて、人気者だったよ。でも、女っ気のない人で、男も女もみーんな友達。恋人は、スイーツ、って公言してはばからないくらい、お菓子を作ることが好きで」

想像する。今とほとんど変わらない、玲音さんの様子を。


「卒業してすぐ、彼がおじいさんの土地を貰ってお店を開くことになったって噂を聞いた時は、自分のことのように嬉しかった」

今の、玲音さんのお店のことだ。


「それからしばらくして、突然、『手伝ってほしい』って、玲音くんから電話がかかってきた。夢を見てるんじゃないかって、思ったな。で、どうせ誰の好意も受け入れない人なら、って、自分の気持ちはしまい込んで、彼の夢を全力で応援しようって、決意したの」

あたし、学校では、玲音くんの次に成績良かったんだよ、って、早川さんは初めて、かすかな笑顔を見せた。


「お店の経営もどうにか少しずつ軌道に乗りはじめて、玲音くんも、わたしも、仕事が楽しくてたまらなかった。毎日充実してて…。

でも、ある日、お見合い会社から、玲音くん宛てに電話がかかってきた」

うちの、萩原コンサルティングサービスのことだ。理央さんが電話をかけたんだろう。
「びっくりした玲音くんは、大山くんが強引に自分の写真を撮って持って行ったことを思い出して、彼から事情を聞いていた。大山くんは大事な女ができたら、もっといい仕事ができる、なんて言って、お見合いするように説得してたみたいだけど、わたしにはそんな話を聞いている余裕はなかった。

もし、玲音くんが誰かとお見合いすることになったら?って考えたら、それだけでも大山くんを殴ってやろうかと思うくらいだったよ。

でも、玲音くんは、『断ってくる』って言って事務所に出かけて行った。あたし、そこまでは予想できてたんだ。

そこまではね」

そこで言葉を切って、早川さんは強い力を込めて、私を見つめてくる。


「でも、玲音くんはあなたを好きになった」


もうすっかり遠い過去みたいだ。

それでも、こう言われると勝手に頬が熱くなってきて、自分に腹が立つ。

「さっきの人でしょ、あなたたちの担当者。できそうな人だもんね」

そうだ、早川さんは、さっき理央さんにも会っている。

「彼女に『じゃあ、ひとりだけでいいから、会ってみて』って言われて、あなたのプロフィールを見た途端に、気が変わったんだって。

あたし、直接、玲音くんにそう言われた。一目惚れって、写真にでもするのかな?」
…する、と思う。だって、わたしが、そうだから。


玲音さんも、私が玲音さんに感じたような印象を、持ってくれていたなんて、知らなかった。彼はまだ、そんな話もしてくれないうちに、わたしとはもう会わないと決めてしまった。


胸が、痛いな。玲音さんから、直接そんな話を聞く、そういう未来はなかったんだろうか。


「あたし、あなたが店に来るたびに、イライラして仕方なかった。玲音くんをひとり占めする女を初めて見たし。いつだって、『早く別れろ』って、思ってた」

…正直すぎる。だから、挨拶しても、返事はなかったのか。あまりに無愛想と言えば無愛想だった彼女の対応を思い出す。


「でも、気が変わった」


「え?」

ふいに、眼鏡越しの彼女の目が、優しく細められたように見えて、初めて声が出せた。「あの、飲み会の日。玲音くんが、あなたといて、本当に幸せそうで」


胸が、つまりそう。


「あなたも、玲音くんみたいに、純粋で」


「えっ?」

早川さんの印象が優しくなったのは、気のせいではなかったらしい。


「初めて、ふたりを応援しようって思えた。今、こんなこと言っても、嘘みたいだけどね」


自嘲する彼女は、そこで一旦話すのをやめた。

コーヒーショップの中は、程よい混み具合だ。ぽつぽつと空席もあるけれど、コーヒーを買い求める人の列が少しできていて。店中に満ちたコーヒーの香りは、わたしの心を少しは落ち着かせてくれたようだ。

ただ、たぶんだけど、早川さんには、この香りも辛いんだと思う。ガーゼの分厚いマスクの上から、ハンドタオルまで押し付けているから。

つわりのときは、ご飯が炊ける匂いも、異様な臭いに感じて吐き気をもよおした、っていう母の言葉を思い出す。
また、少しだけコップの水に口をつけて、早川さんは、かすかに息を吐いた。

「あの日、大山くんが店に戻ってしばらくしたら、玲音くんが起きた。『帰りたい』って言うから、タクシーを呼んで家まで付き添ったの」


どっくん。心臓が嫌な音を立てる。

早川さんも、堅い表情になっているけど、きっとわたしの顔も強張ってるはずだ。そこまでは、大山さんからも聞いた通りだ。


そこからが、早川さんしか知り得ない時間。

「玲音くんは、自分の家に着いたら、やっぱり、すぐにベッドで寝ちゃった。わたしは、お酒に酔うタイプじゃないけど、あの日は、まあ、あなたたちを見て心境が変わったこともあって、飲みすぎたみたいで、すでに頭痛がひどかった。だから、勝手に、洗面所で顔を洗わせてもらって、眼鏡も外して、髪をほどいた。こんなふうに」

いつもお店では帽子もかぶっているから、早川さんは髪が短いんだと思ってたけど、そうじゃなかった。編んでまとめた長い髪を、帽子の中に入れていたのだ。今日も仕事帰りだから、そのスタイル。

それを、彼女は、わたしの目の前で、ゴムやピンを次々と外して、下ろした。


染めてはいない様子だが、茶色い髪の色。大きくカールする毛束。


そう、まるで、まるで―――。
ふと、ガラスに映るわたしたちふたりの姿が目に入って、息を呑む。

―――まるで、わたしみたい、だ。


「元はストレートだけど、髪の毛が落ちてこないように、引っ張っても痛くないように、仕事のある日はいつも編んでる。でも、こうして下ろすと、髪形だけは海空さん2号みたいだよね?」

顔立ちは、早川さんの方がうんと大人っぽくて、知的な感じがする。残念だけど、わたしとは全然違う。

なのに、こうして、髪をほどいた彼女の髪形は、ピンクさんのお店でイメチェンした後のわたしの髪形と、よく似ている。


「さらに、偶然は重なった。その日、あなたがときどき着てくるワンピースを、衝動的に買っていたの」

大山さんの話が、繋がっていく。早川さんだけがしっかりと憶えている現実に。

「たまたま、お昼の休憩時間にぶらぶらしてたら、お店のショーウインドウで見かけて。あたしの家にはないけど、玲音くんの家には姿見があるし、どんなふうになるか見てみたかっただけなのに」


いろんなことが重なって、そのときが近づいてくる気配を感じて、ごくんと喉を鳴らしていた。
「着替えてから、その姿見で確認してみたけど、やっぱり似合わなかった。似合うはずなかった。薄明かりの中でもあたしには、それがよくわかった。

わかってたのに、着てみて、そのことをきちんと実感したら、みじめになった。

同じ服を着たからって、あなたになれるわけがないのに、って。無意識のうちに、あなたになりたいって思ってた自分に気づかされて」


早川さんは、そのままの彼女で、玲音さんに必要とされていたはずなのに。お店での様子を見ていたって、わかるのに。


「…最後の、偶然は、そのとき、玲音くんが目を覚ましたこと」


息が、止まる。


「暗い部屋の中で目が合っても、長い付き合いだから、あたしのほうは『珍しいな、起きるなんて』って思っただけだった。でも、玲音くんは違った」


息がうまく吸えない。


「『海空ちゃん』って呼んで、あたしを引き寄せてキスした」

聞きたくないけど、聞きたい。聞きたいけど、聞きたくない。果てしない花占いみたいな思考の輪がぐるぐるぐるぐる回って、こんがらかって…。


「この7年間に、見たことのない顔で、聞いたことのない声で」


痛い、痛い。

なんだかあちこち痛い。

ああ、でも、その顔。早川さんだって、なんだか痛そうだ。


「『海空ちゃん』って呼ばれるたびに心が粉々に砕けるのに、触れられたらそれが癒える、ってことの繰り返しみたいだったな」


痛みは、まだ激しくわたしを襲ってくる。


「間違ってるって言ってあげればよかったってこと、わかってるよ。玲音くんは、飲んでも理性まで吹き飛ぶタイプじゃない。

でも、あたしは、そうしないで、黙ってた。あなたのことを思い出さなかった訳じゃないのに」

とりわけ、痛む、このこめかみは、どうしたらいいだろう。指でごりごり押してみても、効果はない。

ほどよく人で満ちていたはずのお店の喧騒は、ちっとも耳には届かないけれど、そんなことにも、わたしは気がつかない。


自分の長い片思いを諦めるための、儀式だから、とか。神様か悪魔かわからないけど、そういう存在の計らいなんじゃないか、とか。自分に言い聞かせてた。…と、早川さんは言ったと思う。

自分が黙っていれば、アルコールに弱くてコンタクトをつけてない玲音さんは、すべて夢だと思うんじゃないか、って信じていた、と。


でも、現実には、玲音さんは、自分の記憶の大きな間違いに気が付いた。

そして、大山さんは、早川さんの体調の異変に気が付いた。


…痛いな。頭が。

ずきずき、が、ずっきんずっきん、になって。もう、まともにものを考えられなくなってくる。


「ごめんなさい」


はっきりした声で、目をそらさずに、わたしにそう告げる。それでも、早川さんの瞳は、ゆらゆら揺れていた。


「玲音くんは、悪くない。あたしが、弱かったから」


そう付け足すと、彼女の瞳はさらに、ゆらゆら、ゆらゆら、揺れて。


「でも、後悔はひとつもない。それも、申し訳ないって、思ってる」


早川さんは、深い深い沈黙の中に、再び沈んでいく。大仕事を終えた、という様子で、ソファに体をもたせかけて、体を沈ませる。

わたしも何か言わなくちゃ、と思うのに、口と言うよりは、喉が開かない。乾きすぎて張り付いているみたいだ。ああ、この頭の痛み、これが消えてくれればもうちょっと、まともなことが考えられそうなのに。


いや。

いやだ。

どうしても、いやだ。

どうして。

どうしてこんなことになっちゃったの。


あの歓迎会の夜の、空白の時間のことが、わかったのに。結局、なんとか浮かべられる言葉は、そのことがわかる前と同じような内容で。


どんなことが理由でも、原因でも、わたし自身は玲音さんのことを、諦めきれないんだと、思い知っただけ。


それなのに、彼に言われた「もう、会えない」の一言は、重たくわたしにのしかかってきて。



…確かに、玲音さんがそう決めた以上、もう、会えないんだ。わたしが、どんなにいやだって、泣いてもわめいても、もう、会えない。

彼の子どもが、彼女のお腹の中にいる。それが、確かな事実なら、わたしは、もう、玲音さんには、会えない。そして、それが、事実だってことを、わたしはたった今、病院で、さらには早川さんの表情や態度から、知ったのだ。


だって、玲音さんが、言ったから。自分の子どもを妊娠したなら、彼女を放っておけないって。

その気持ちは、責任からくるものなのか、子どもへの愛情からくるものなのか、彼女の気持ちを受け止めてのものなのか、わたしにはわからないけど。


もう、玲音さんが、わたしに対して、ただ純粋に、好きだ、って恋しく思ってくれることはない。


そこにはきっと、罪悪感や、背徳感や、大人らしい、たくさんの感情があれやこれやと上書きされているんだろう。

優しい人だから、余計に。


わたしだけが、まだ、こんなふうに、子どもみたいに、ただ恋しく思う気持ちをもてあましている。…のんびり、構えすぎてたのかな。平和ボケ、してたのかな。

肉食系女子に変身して、シャイな玲音さんをぐいぐい引っ張るくらいしておけば、よかったのかな。

お互いに結婚したい気持ちがあるなら、なんとしても強引にかつ素早く、結婚に漕ぎつければ、よかったのかな。

後から、早川さんの妊娠が発覚したなら、玲音さんと会えなくなるなんてことだけは、避けられたのかな。


こうして、いろんな疑問が解けて、何が起こったのかを理解はできても。

あのときこうすればよかった、ってどれほど後悔しても。

なにをどう、考えても。



玲音さんは、もう、わたしに、会ってくれない。
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