結婚したいから!
ぶっ。げほっ。げほっ。

「何やってんのー、九条さん。鈍くさっ」

飲みかけていた紅茶を、噴き出すことだけは、なんとかこらえたものの、いくらか空気の通り道に入り込んでしまったらしく、盛大にむせた。

あまり目立ちたくなかったので、ハンドタオルで慌てて口を押さえたけれど、声のデカイふわふわ頭のせいで、歩いてきた彼としっかり目が合ってしまった。

香山くんがいるんだったら、紅茶も飲まずに我慢すればよかったって、思ってたけど。ふらっと来た甲斐があったかも。


場所は、萩原コンサルティングサービスマリッジ部のフロア。

でも、事務所じゃない。事務所前の廊下をまっすぐ進んで、喫煙コーナーの隣にある、ドリンクコーナーだ。昼の休憩時間が終わる直前、冷えた体を温めようと紅茶を飲みに来ていたのだ。

年明け早々、街は冷え込んで、ちらちらと細かな雪が舞う日だったから。


一瞬、「うわ、ヤバい」という顔になったのは、廊下を歩いていた、コーイチ。

「いいもの見た」という顔をしていたと思うな、わたしの方は。
ドリンクコーナーの先には、うちで会員登録してくれているお客さんと相談業務を行うための、相談用ブースが並んでいるだけだ。

へえ。コーイチって、まだうちの会社のお客さんだったんだ。

わたしがここで働いてるって知ってるのに、その話をしないのは、話したくないからだろう。たぶん、なかなか結婚できないから「かっこ悪い」とか、思ってるんだろう。

コーイチは、すぐに表情を消して、何もなかったかのように行ってしまったけど。

わたしは、その後もしばらくは笑いをこらえるのに必死だった。


会社で、彼を見かけてからも、あえてそのことには触れないようにしていた。お客さんの中にも、結婚相談所の会員になったことを、家族にも知られたくない、っていう人が少なくないから。

でも、コーイチは、開き直ったらしく、それからは、縁談が駄目になるたびにいちいち報告してくるようになった。


「もー、また駄目になった!!」

遅れて来たコーイチが、席に着くなりこう言うから、毎度のことながら、わたしも紗彩も笑い出してしまう。
「金とか家とかじゃなくて、俺と結婚したいって女、もういないのかな?金と家が、女の目をくらませるのは、なんでだ?」

そう言って、コーイチが紗彩のグラスのビールを勝手に飲み干して、机に突っ伏してしまった。

「いいんじゃない?金と家を武器に、結城好みの女を落とせば」

紗彩がくすくす笑いながら言い切るから、コーイチが顔をあげて「信じらんねー」って呟く。

「お前も、金と家につられて結婚するのか?」

紗彩が、ちょっと考えて、こう答えた。

「まあ、つられるってほどじゃないけど、たまたま相手がその二つを持ってたら、ラッキーって思うよね、海空?」

「ええっ?」

紗彩が突然私に相槌を求めて、びっくりする。

「なに、ミクもそう?」

コーイチが、暗い目で、今度はわたしのグラスに手を伸ばすから、それを取り上げた。

やけ酒は、良くないと思う。
「わたしは、どっちもどうでもいいかなぁ。ずっとわたしの傍にいてくれる人がいいな」

ふたりが沈黙してしまって、あれ?どうやら場違いなことを言ったらしい、って気がついた。

「海空って、いつまでも夢を見てるんだね?とっくに現実を見てもいい歳だけど。どうやってごはんを食べるのよ、子どもを育てるのよ。お金があって、家柄がいいなら、最高じゃない」

紗彩が、げんなりした顔で、わたしにそう諭してくる。

「ふふっ。大丈夫。何にもなくたって、わたしが働くから」

実際、わたしの母はそうやってわたしを育ててくれたんだよね。あんまり苦労したって顔はしてないけど、大変だったのかな。

「なに、あんた、旦那がヒモ状態でもいいって言うの?」

紗彩が心底呆れた、って顔してる。

「わたしを好きでいてくれて、どこにも行かないんでしょう?なら、仕事してなくてもいいなぁ」

毎日、家で、わたしの帰りを待っていてくれる旦那さま。腕には愛しいわが子を抱いていたりして…。

それいいね。想像してうっとりしていると、紗彩はとうとう沈黙してしまった。
「ミクって、悪い男に引っかかりそうだよな」

コーイチが、ぽつりと呟くと、紗彩も深く頷いている。

「あたし、心配でたまらなくなってきた……」

ふーんだ。大丈夫だもん。警戒心も強いもん。


「あ、えっと、だからね、何を言いたかったのかって言うと。コーイチがお金持ってなくても、仕事してなくても、わたし、きっと友達になったよ?ね、紗彩だって、そうでしょ?」


紗彩が、コーイチの方をちらりと見て、にこりともせず「まあね」って答えた。

コーイチが、今度こそ無理矢理わたしのカクテルのグラスを奪って、中身を飲み干した。

早く自分の分を注文すればいいのに。

「お前ら、ほんとにいい奴らだな!」

バン!ってグラスが割れんばかりの勢いで、テーブルに置かれる。
「首が締まる!」

「いった!バカ力!細いくせに、どこにそんな力があるのよ!」

酔っ払ったのか感極まったのか、わたしと紗彩はまとめてぎゅうぎゅうに、コーイチに抱きしめられてしまった。

あれくらいのアルコールで、酔っ払うはずないか、コーイチはお酒に強いから。

つまり…、感極まったってことだな。わかりやすい人。
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