結婚したいから!

あなたとわたし

…ああ、ひどい格好で寝てた。

コーイチの会社、最上階にあるこの仮眠室で眠るのはまだ二日目なのに、信じられないくらいわたしは寝つきがよく、気がついたら部屋は真っ暗だった。

うーん、色んな事が一度に起こり過ぎて、疲れた。

父のマンションを出たときのまま、ひいては、この仮眠室を、朝早く慌てて飛び出した格好のままで、わたしはいつの間にか寝てしまっていたらしい。


ふふふふっ。

隣で、こちらもまた珍しく、眠り込んでしまったらしいコーイチも、同じようにスーツを着たままですうすう寝息を立てているから、思わず笑ってしまった。

そして、お互いに熟睡していた間だって、絡めたままだった指先を感じると、胸がじんじん痺れてくる。

今日、わたしを迎えに来るのが少し遅れた理由は、仕事じゃなかった。コーイチが、婚約指輪を買いに行っていたから、なんだって!!きゃあ!

どうりで、遅れたことに関する、理由も説明もないあっさりした文面のメールだったわけだ。

まさかまさか、お父さんの前で、婚約指輪をもらってプロポーズを受け入れることになるなんて、思ってもみなかったけれど。

「ミクが自分の気持ちを整理して、俺を許してくれた時には、きちんと婚約するつもりで待ってた」

父のマンションから、車で会社に戻る途中で、穏やかな笑みを浮かべながら、そう言ったコーイチ。惚れ直しそうだった。いや、一層、彼を好きになったんだから、惚れ直したんだ、わたし。

思っていた以上に、安定した深い愛情を、わたしに対して持っていてくれたのかもしれないと思うと、甘ったれた不満で埋もれていた自分が心底馬鹿だったと気がついた。

そんなふうに回想してしまって、思わずきゅっと、そこは意外と男らしくて大きな、コーイチの手を握りしめるけど、彼は何の反応も見せないで、穏やかな寝顔のままだ。

どうやら、相変わらず、一度寝たら深く深く睡眠を貪るタイプらしい。だから、睡眠時間が短くても元気なのかもしれない。


「コーイチ、ほんとにわたしの旦那様になってくれるの?」

まだ、実感はない。ぼんやりと、妄想のように、ふたりで暮らす様子を思い浮かべてはみるけれど。

静かな部屋では、わたしの独り言も大きく響くように聞えるのに、やっぱりコーイチはピクリとも動かない。

へへ。くっついちゃおう。

初めて一緒に眠った日に、こうして勝手にコーイチにぴったり張り付いたままで爆睡してしまった失敗は、ちゃんと憶えてるけど。この誘惑には、やっぱり敵わないよね!なんて自分に言い訳しながら、彼の胸に頬を寄せてしまう。

出会ってから、幾度目かの、迷いだか勘違いだか、よくわからないトンネルを抜けたら、結局この甘い香りのする腕の中に舞い戻って来てしまうわたし。

自分の気持ちを自覚した日から、だんだん好きって気持ちは増して。もうここが最高点じゃないかって思うのに、まだまだ上があって。

惚れっぽいだの恋愛依存症だのと紗彩に言われ続けて来たわたしの、これまでの恋がかすんでしまって思い出せないくらいに、コーイチのことしか頭にない。

すっきりしたカーブを描く頬に、そっと手のひらで触れてみる。

今日、婚約指輪をもらったのに、キスもしてない。仮眠室に辿りついて、「疲れた~」なんて言いながら、ベッドに転がり込んで、そのまま眠ってしまった、数時間前の自分を呪う。

けど、ちょっと待てよ?まだ、日付は変わってないかも。


「今からしちゃえばいっか」


全くの無防備なコーイチの寝顔が、あまりに魅力的なので、静かにキスをした。

かすかに開かれたその唇は、いつも以上に柔らかく、色っぽく感じられて。…離れがたい。

離れ、なければ。

とは、思うのに。

コーイチが無抵抗なのをいいことに、ドキドキしながらも、たっぷり彼の唇を味わっていたら。


「…ん」

あ、ヤバい。起きちゃいそうだ。

コーイチはぐっすり熟睡するけれど、朝まで起きない、ってタイプじゃないということは、実証済みだ。彼はとても寝起きがいい。


寝たふりをするべく、わたしは慌てて枕に顔を埋めた…、つもりだった。

「ひゃあ!」

急に腕を引かれたせいで、実際にわたしが顔を埋めたのは枕じゃなくて、コーイチの胸だった。

うわあ、起こしちゃった。寝ぼけたふりしてよう…。

ドキドキと跳ねまわる心臓をなだめているのに、コーイチはしっかりとわたしの背中を両腕で抱いて、耳元でこう言った。


「ミク、キスしてくれたの?」


バ、バレそうだ。起こしたことどころか、勝手にキスしたことまで。

「…夢でもみたんじゃないかなぁ」
「すげーリアルな感触」
「…近頃は、夢にも感触があるんだね」
「こう、ぷるぷるしててさ」
「…へえ」
「気持ちいいから、離れると残念でさ」
「…うん」
「そう思ってると、またくっついてくる」
「……!」

恥ずかしい、恥ずかし過ぎる!!何回もした、ってことまでバレかけてる!!
寝たふりとか寝ぼけた演技とか抜きにしたって、恥ずかしさに顔が上げられない!


「いい夢だろ」
「…うん」
「でさ、目を開けたら、婚約者がいた」
「…婚約、者」
「そう。現実に、婚約者がしてくれたんだったらいいなって、思うだろ、当然」
「…うん」
「な、ミク。キスしてくれた?」
「……う、…うん…」


ゆ、誘導尋問!!コーイチって案外、知能犯!

そんなふうに言われたら、認めるしかない。


「嬉しい」


優しい声で、そんなふうに言われたら。

恥ずかしくて上げられなかった顔を上げて、その表情を見たくなる。

ドッキンドッキンとうるさい心臓の動きを感じながら、そっと、コーイチの綺麗な澄んだ目を覗きこんでも、彼はわたしをからかうこともなく、嬉しそうに微笑む。

嬉しいって言ったら、本当に嬉しいって顔してる人だなあ。

「キスも、だけど」
「ん?」


「俺と結婚したいって言ってくれて、ありがとう」


本当に、この人は。

思ったことは、何でも、素直に言葉にして、伝えてくれるんだなあ。

それが、どれだけ私の心を揺さぶったり、熱くしたりするのか、自覚はしてるんだろうか。


「それは、うれし涙?」

少し困った顔になって、後ろに回っていた手で、背中を撫でてくれる。もう一方の手で、耳の方に流れて行く涙を拭ってくれる。

「そうだよ。コーイチのせいだよ」

「そっか。ミクも嬉しいんだ?」

「嬉しい。コーイチこそ、わたしと結婚したいって、何度も言ってくれて、ありがとう」

「お、なんか、俺、何回も断られたって感じだな?」

「え、だって、結婚してって言うタイミングも状況も変なんだもん」

付き合ってもいない、親友同士だったとき、コーイチが口癖かってくらい結婚してって言ってたことを思い出して、二人でくすくす笑った。

「変じゃない」

「え?」
「状況とかどうでもいいくらい、ミクと結婚したかったから」

「……」

「あ、また照れてる」

「……だって」

照れるでしょ!普通。そんな甘い言葉を吐いて、にこにこしてられるコーイチの方が、変だと思う。

「じゃあ、照れてるついでに」

「ん?」

温かい手でわたしの頬に触れながら、コーイチが、優しい目でわたしの目を覗きこむ。


「愛してる」


「へ」

アイシテル?生まれて初めて言われたから、きょとんとしてしまった。

「ミク、愛してる」

「…ん」

何て言ったらいいのか、わからない。

「すっごく好きで、めちゃくちゃ好きで、大好きが深くなった感じ」

「ん」

「それが、ずっと続く予感までする」

「ん」

「初めて使った言葉だけど、『愛してる』って言ってもいい感情だと思わない?」

「…思う」


コーイチの目と合わせている私の目は、また濡れていないだろうか。

もし、そんな感情のことを愛と呼ぶのなら。


「わたしも愛してるよ、コーイチ」


わたしだって、同じ気持ちだ。

素直になろうとか、意識しないうちに、わたしの声がそんな言葉を作る。

コーイチは、満ち足りた笑顔を見せると、温かい手でわたしを抱き寄せた。



「…なに、これ」

コーイチが、綺麗な目を見開いて、呆然としている。

「これって、どれ?」

甘い雰囲気がかき消えたのを感じ、少し戸惑いながら、わたしはそう問い返す。

「ミクの首。それってキスマーク?」

頭の中が一瞬真っ白になったけれど、コーイチの視線をたどってみて、思い出した。香山慎が、わたしの襟元に顔を埋めたときに、一瞬肌に痛みを感じたことを。

あのふわふわ頭め!!


「…香山くんが、ふざけて」

声が小さくなる。コーイチが、わたしの言葉にすんなり納得するはずがない。キスマークを付けるなんて、ふざけるにも度が過ぎると、わたしだって思う。

でも、たぶん、本気でどうこうしようとは考えてなかったと信じたい。


「あいつ、社会的に抹殺してやろうかな」


冷静な顔、涼しい声でそう言うから、わたしはコーイチの顔をぽかんとして見上げた。

…コーイチって、意外と、お父さんと同じタイプなのかもしれない、と思って。

「大丈夫、直接手は下さないから」

にこりと笑いかけるコーイチだけど、その笑顔が怖い。うん、なんか、紗彩に似てきたよ、コーイチ。
「えっと…、そういう問題じゃなくて…」

「ん?」


「不満」そうな顔のわたしが「イラつく」という滅茶苦茶な香山くんの理論は、やはり彼独自ものだ。正しい考え方だとは、到底思えない。

ただ、今までだって、わたしが何か迷ったり、間違えたりしているときには、痛みを伴うほどの刺激とともに、わたしに影響を与えて来たことは確かだ。

今回も、彼がとったのは乱暴な方法だったし、言葉も暴力に近いものだったと思うけれど、いかに自分のプライベートでの不満を仕事にまで持ち込んでいたのか、ということはわたしも思い知った。

「わたしも、悪かったから。コーイチ不足だからって、仕事中も上の空で、ずっと落ち込んでた。周りの人に迷惑かけてたみたい」

恥ずかしくて、顔が次第に下を向いてしまうのが、止められない。

「俺のせいなんだ?」

「え?」

「ミクの行動は、何もかも、俺のせいで、俺のため?」

「……うん」

その言い方されると、ますます恥ずかしいけど、間違いだとはいえない。いや、正解だ。馬鹿みたいに、今のわたしの世界は、コーイチを軸にして動いている。
「じゃあ、香山って男に迫られて、キスマークつけられたのも、俺のせいになるか?そうじゃないだろ?あいつが一番悪いに決まってる」

……なんて答えればいいかわからず、黙り込んでしまった。

それは…、いや……、やっぱり「香山って男」が最低な軽い男だから悪い、そうは思っても、胸元にその男のつけたキスマークがあるわたしが言えることなのかどうか、って考え込んでしまう。

わたしの注意が足りなかったと言われれば、それもそうなのだから。

うわ、しかし、落ち着いて思い返してみると、恐ろしい。ふざけてただけだって信じたいけど、お父さんが来てくれなかったら、どうなっていたことやら。

ぶるり、と身震いしたそのとき。


はあ、と、コーイチが大きなため息をついた。

「ごめん。香山って奴のこと、あんまり訊くと、ミクが嫌がるってわかってたのに」

…ああ、そう言えば、前に香山くんが抱きついてきたことを、コーイチに訊かれて「忘れたいのに!思い出させないで!」って、きつく言い返した気がする……。


「…うん。わたし、前にも言ったよね?」

ふと、いたずらを思いついて、ぐすっと鼻をすすってみる。コーイチをだましちゃお。

わかりやすいくらい、コーイチがぎくりとして表情を強張らせた。

「香山くんが苦手だって。思い出したくもないって、言ったのに」

ずびっ。で、追い打ちで手のひらで顔を覆ってみると。

「ごめん!ほんとに、悪かった。ごめん、ミク」

そう言って、コーイチが慌てた様子で、わたしの頭を撫でる。

「ううん…。わたしが、悪い。香山くんと二人っきりになっただけでも、いけなかったんだよね」

気をつけてってコーイチに言われてたのに、あのときはそれどころじゃなくて、その状況にも気がついてなかったのは事実だ。不注意だと言われたら、それまでなのに。

「ごめんな。怖かったな」

コーイチは、わたしの下手な嘘泣きに気がつく様子もなく、優しいままだ。


あは。コーイチって単純。素直すぎる。

よく考えたら、おかしいでしょ?

理由はともかく、他の男に襲われかけた(?)彼女に、その状況を問い詰めたくなるのは当然の心理だと思う。

わたしだって、コーイチが他の女の人に迫られてたら……、うう、想像だけでイライラしてきた!
だけど、コーイチは、このキスマークを見つけなかったら、わたしには香山くんの話をしないつもりでいたんだろう。

そんなに気を遣ってくれていたのに、コーイチのどこに非があるって言えるだろう。

優しい人だ。自分のことより、わたしのことを考えてくれた。

眼鏡も鞄も携帯電話も忘れるくらい、慌てて、駆けつけてくれた。わたしの下手な泣き真似にだって、騙されてくれる。涙ひとつ、こぼれていないっていうのに。


…あれ…?

顔を覆っていた手のひらに、熱い涙が伝い始めていて、自分で驚いてしまった。


「やだなぁ。泣き真似だったのにぃ…」


「へっ!?」

すっかり涙声になってわたしがそう漏らすと、コーイチは大げさに驚いた。心底信じてたんだろうな…。

「わたしの不注意だって言われたって仕方ないって思って、何も言えなかっただけなの。なのに、コーイチ、わたしの嘘泣き信じて、優しくしてくれるから」

だから、本当に泣いちゃったみたい。
「うわー、恥ずかしい。…俺、ミクの嘘泣きに騙されやすくない?」

そう言えば、前にも、祥くんからコーイチとのメールのやり取りを責められたって言いながら、嘘泣きしてみせたっけ。あのときも、信じて慌ててたはずだ。

「ふふふ。だね。わたしのこと信用し過ぎじゃない?」

思い出すと、おかしくて、涙が止まる。騙されたのに、怒ることもなく恥ずかしがってるコーイチのこの様子を見るたら、きっと紗彩はまた「かっこ悪い」って言うんだろうなって想像すると、すっかり笑顔になった。


「仕方ない。俺、ミクのこと好きだから」

油断していたので、そう言ってにこっと笑われると、またどぎまぎする。

「……う、ん」

「お、また照れてんのか?いい加減、慣れたら?」

「な、慣れるはずない!」

赤い顔で、なんとかそう言い返すだけのわたし。すっかり形勢逆転で、コーイチにからかわれている。


これからだって、色んな事が起こって、あなたとわたしの間には、隙間ができることもあるかもしれない。

いっそのこと離れてしまった方が、お互いのためになるかもしれないと思うことも、あるのかもしれない。


それでもきっと、あなたとわたしは、お互いに対して「愛してる」と言える初めての気持ちを抱いて、なくてはならない存在になったはずだから。


結婚しようね。


暗くて、何時だかよくわからない、部屋の中。

あなたとわたしは、一緒に、結婚した後の夢や理想を、語り合う。眠気を押しやって、開いた瞳で、同じ未来を見つめていた。


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