マスカケ線に願いを



 事が起こったのは、それからしばらく経った頃だった。
 小夜さんと昼を外で食べ、事務所に戻ったとき、女の人が入り口に立っているのに気づいた。
 女の人は、入り口を見つめたまま、中へ入るそぶりを見せない。

「入らないのかしら?」

 小夜さんが私に聞く。私はちらりと女の人の顔を見て、はっと息を呑んだ。
 黒い髪に、濡れたような黒い目、白い肌に、全体的に大人しそうな雰囲気。間違いない。『こまち』さんだった。

「杏奈ちゃん、どうしたの?」

 突然足を止めた私を、小夜さんが不思議そうに見た。その声が聞こえたのか、女の人が振り向いた。

「……あの」

 彼女は躊躇いがちに私達に話しかけてきた。

「こちらの事務所の方ですか?」
「そうですが、どうかなされました?」

 小夜さんが私に代わって返事をした。女性はほっと安堵のため息をついた。

「お尋ねしたいのですが、こちらに、蓬柚紀という人はいますか?」

 彼女の言葉に、小夜さんがちらりと私の顔を伺った。

「はい、蓬はうちの弁護士ですが」
「そうですか」
「彼に何か?」
「相談したいことが、ありまして……」

 そっと目を伏せた彼女から、哀愁にも似た妖艶な色気が発せられる。

「それでしたら、受付の方でおっしゃってみてください」
「わかりました。ありがとうございました」

 深々と頭を下げてお礼を言うと、彼女は受付のほうへと歩いていった。それを見送ってから、小夜さんが私の顔を覗き込んだ。
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