気持ちは、伝わらない(仮)

僕は君のことを知っていた


 心臓が飛び出してしまいそう、もしくは相手に心臓の音が聞こえてしまいそう、とはこのことだ。

 阿佐子は心音と同じ速度で桜並木を歩いている。時刻は1時15分。この場合、相手より遅れていくべきであると優雅に想定し遅めに出てきたが、予想以上に歩調が速く、腕時計を何度も覗きながらグラスへ向かった。

 土曜の午後。思わず空気を胸いっぱい吸い込んでしまうような澄んだ晴天である。

 これから何をどう話されるのか分からない。だが、悪い方向には向かないだろう。

 阿佐子はこの緊張を、むしろ楽しむつもりで前進した。

 緑を基調とした小洒落た店は、いつも若い女性客が多い。土曜の午後なんてもしかしたら席が空いていないかもしれない。先にガラス張の中が目に入った。もう来ているだろうか、確かめながら近づく。

 だが。 

 まず茶髪の女が目に入った。

 次にダークスーツ。

 阿佐子は立ち止まっていた。

 もう一度確認。

 湊はボックス席に座っている。だが、真正面に腰かけているのはこの、約束をしていた自分ではない別の女だった。

 若い。年は自分と同じくらいか。濃いパープルのワンピースが少しきつい印象を持たせる。だがそれは化粧のせいでもあるかもしれない。

 いくらくらい立ち止まっていただろう。かなり長い時間だったかもしれない。

 そんなつもりで見ていたわけではなかったが、湊は阿佐子に気付いて席を立った。

 だが、正面の女が何か言っている。

 しかし湊はそれを振り切って出て来た。

「ごめん、お待たせしてしまって……ちょっと、歩く?」

 湊は複雑な表情をしている阿佐子を見て、何ともなさそうに優しく言った

 阿佐子は当然頷き、節目がちにそちらに寄る。

 一旦思考をシャットアウト。

 交差点を渡り、桜並木の中へ入った時にはどんな会話でも対応できるように覚悟はできていた。

「さっきの子ね……」

「はい」

「あ、知ってる?」

 湊は歩きながら話を始めた。

「いいえ。有名な方なのですか?」

 阿佐子は湊の背の高さを間近に感じながら、緊張で声が震えるのをどうにか抑える。

「会社の子だから。午前中だけ出社していて、ちょっと気になるところがあってね、休みなのに呼び出したから機嫌が悪くて」

 静かに苦笑する湊の後ろで、阿佐子はゆっくり顔を上げた。

「……どうして私が……その方を知っていると思ったのですか?」

「うん……」

 湊はこちらを見ない。ただ、そのまま真っ直ぐに歩いて行く。歩調はとてもゆっくりだ。自分に合わせてくれているのだろう。と阿佐子は思う。

 桜並木に入った時から気付いていたが、門の最後には荷台に大きな箱と旗をつけている自転車が止まっていた。すぐ側でタオルを首にかけた女もいる。

だが、阿佐子はそのような光景を見たことがなく、何をしているのかさっぱり分からなかった。掲げられた旗には「ラムネ」と書かれているが、アメのラムネをどうしてこんなところで売っているのだろうか、と想像した。

「炭酸飲める?」

「え?……あ、はい……」

湊はその自転車に速足で近づくと「2つ」と言い小銭を出した。

「開けますか?」

 タオルの女が聞く。

「はい」

 湊が返事をしたと同時に阿佐子はそのラムネという物を見た。

初めて見る。瓶の口に飴玉が挟まっているラムネ。女はそれを凹凸がある蓋で押して飴玉を中へ押し入れた。と同時に泡がふいてくる。

 女は泡をざっとタオルで拭くと2つ湊に手渡した。

「はい」

 阿佐子は素直に受け取る。その時、中のアメが瓶に触れてカチンという音がした。

「あそこに座ろう」

 湊は河川敷の石段を指すとそちらへ歩いた。

 阿佐子も続く。幸い石段は綺麗で、ハンカチを敷くほどでもない。

 2人は50センチほど離れて腰かけた。

 座ってから阿佐子は中のアメをしげしげと眺めた。そして思い切って一口飲む。だがすぐにアメが口をふさぎかけ、中の液体が出てこなくなる。

 阿佐子はこの不可思議な飲み物に心底驚いた。

「これ」

 阿佐子は口を押えて湊を見る。

「ん? 何?」

 もちろん湊は平気で瓶を傾けている。

「中のガラスですよね? ビー玉」

「あれ? 知らない?」

 湊は目を丸くして驚いた。

「世代の違いかな……確かに最近は外で売ってるのは珍しいけど……」

 湊は苦笑する。

「どうして中にビー玉を入れる必要があるのでしょう?」

 阿佐子は瓶を見ながら、呟く。

「そりゃ中の炭酸が一気に出ないようにって工夫だよ。それにああやって開けるのが面白いんだ。手が汚れるけどね」

 湊はカランカランと音を立てながら、ラムネを飲み干していく。

「便の口を小さくすればいいのに」

 阿佐子も呟きながら少しずつ口をつける。

「理不尽なところがいいんだ、きっとね」

 明るい声が耳に残る。

空気は非常に穏やかだ。

「……さっきのことだけどね」

「はい」

 小鳥のさえずりなど聞こえていないかのような湊の真剣な表情に、阿佐子は口を結んだ。

「会社の子をどうして樋口さんが知っていると思ったのか」

 阿佐子は目を閉じた。何を言われるのか既に想像がついていた。

「隠すつもりは……」

 阿佐子の心配そうな顔に気付いたのか、湊は笑う。

「隠すも何も、樋口阿佐子という名前を社内で、いや、この業界で知らない人はいない」

「そう……ですか」

 湊は黙って頷く。

「有名だよ。現役女子大生が小学生の時から研究所で働いているなんて。一度聞いたら忘れないだろう。だから名前を聞いてすぐに分かった。だけど一応……何学部が聞いてみたんだ。学部は仕事とは全く関係のない所だということも知っていたから」

「……そうですか」

 ダメかもしれない、そう感じた。つまり、湊が阿佐子に優しいのは勤務先の会長の姪だからである。これ以上ない明白な理由だ。

ラムネは半分ほどになったがそれ以上進みそうにない。

「昨日ね、会長に会ったんだ」

「叔父様に!?」

「うん……」

 目を丸くした阿佐子はただその横顔を見つめた。

「僕は樋口阿佐子さんとお付き合いしてもよろしいでしょうか、って」
 
湊は優しくこちらを見つめてくれたが、まさか叔父に!?という驚きもあって、素直に目を見られなかった。

「会長は……」

「構わないって言ったでしょう?」

「うん……機嫌付きだけどね。条件もある」

 阿佐子は深呼吸しながら真っ直ぐ前を見る。

「ロンドンの……彼はまだ12歳です」

「4年ある」

 阿佐子は軽く首をふった。

「法律ではそうですけど、あまり関係はありまん」

「僕は構わない。それは君のことを適当に考えているという意味じゃない。

僕は……。……本当のことを言おう……」

 様々な想像を掻き立てるほど、間があく。 

湊がなかなか話を始めないので阿佐子は思い余ってそちらを見た。

それに気づいた湊と、目が合う。

「僕は君のことを知っていた」

「え?」

「それは1人の女子大生という意味で知っていた。あのカフェでよく合うなと思っていた。

すごく……キレイな人だと思ってた」

 湊は精一杯の愛の告白をした。

だが阿佐子は顔を逸らし急に不機嫌になる。

「私、綺麗なんかじゃありません」

 予想外のことに湊は焦って言葉を探した。

「いや、外見うんぬんの話ではなくてね。こう……どういえばいいのかな……。つまり、気になっていたということなんだ」

「本当に?」

 阿佐子は大きな瞳をさらに大きく開けて湊を見る。

「嘘の方がいい?」

 湊は丸い目のまま首を振る阿佐子を見てから、緑の瓶を大きく傾けた。
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