ルージュはキスのあとで



 長谷部さんからの零度の視線を浴びないように必死に覚えようとする私を見て、長谷部さんは言う。


「ヘタな知識が入っていないから教えやすい」



 確かに、なんにも入っていないですからね。生まれたばかりのひな鳥のように、吸収率は高いことでしょうよ。

 これは、誉められているのか。けなされているのか。


 ……たぶん、その両方ですね。はいはい、わかっておりますよ。



「とにかくメイクの前のケアを怠るな。そして覚えろ」

「……はい」

「肌が整っていれば、それだけでメイクのノリが全然違ってくる」

「……そんなもんですか」

「ああ、そんなもんだ」



 へぇ、と感心して聞いていた私に、ギロリと冷たく鋭い視線が飛んできた。



「へぇ、じゃない。これから毎日朝と風呂入ったあとにやるんだ」

「え……」

「え、じゃない」



 またしてもチラリと視線を向けられる。

 その視線……脅威を感じるぐらいに、なんともいえぬ圧力を感じるのですけど……。

 そんな長谷部さん相手に、私も私だと思う。

 思わず呟いてしまった言葉に、自分自身残念でならない。



「……面倒なんですけど」


 しまった! と思ったが、すべて後の祭りだ。

 肩を竦めて長谷部さんをチラリと見れば、腰に手を当てて苦笑していた。



「だろうな。女は大変だよな」

「……人ごとですね」

「ああ、人ごとだからな」

「……まぁ、そうでしょうけど」



 口を尖らせて、ブツブツという私を他所に、長谷部さんは使った道具の片付けに入っていた。


 
「まぁ、習慣にしてしまえば苦痛には感じなくなるだろう」

「……」



 確かに習慣にしてしまえば、なんてことないのかもしれない。

 たぶん、世の中の女性の中で私は底辺をさまようぐらいにメイク関連をしていないのだと思う。

 でも、まぁ……これもこの企画の間だけ頑張ればなんとかなるはずだ。

 私も長谷部さんの絶対零度の視線を浴びて怯えることもないだろうし、長谷部さんも面目が立つことだろう。
 そんなことを心の中でこっそりと思う。

 無言のまま、ちんまりと椅子に座っている私に、長谷部さんはクスリと笑う。
 それも、いつものようになんでもお見通しとばかりの笑いが癪に障る。





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