愛を教えて ―背徳の秘書―
朝美は電車通勤だ。

約二十分、乗り換えなしで八駅の距離……彼女は月収の約四割を住居費に当てている。負担は大きいが、通勤の便利さと安全性、そして居住性を優先させたマンションを選んでいた。

今朝もいつもどおり、本社ビルの最寄駅で電車を降りた。

そして階段を上がる途中、地上まであと数段というとき、ふいに足下をすくわれた。誰かの足か、それとも鞄か……。

ともかく、バランスを崩した朝美は数段滑り落ち、膝を擦り剥いたのだった。



「通勤の時間帯でしたから、階段も混んでいて下まで落ちずに済みましたの」


朝美は、少し離れた位置に立つ香織に、


「もし、下まで落ちていたら……大変なことになっていたかもしれませんわ。志賀さんもお気をつけになって」


そう言って思わせぶりにニッコリと笑った。


香織は一瞬眉根を寄せ、「中澤さんとは降りる駅が違いますから」と小さな声で答える。


「あら、どこにもおかしな人間はいるものだわ」

「ええ……そうかもしれませんね。充分に気をつけます」 


キッと顔を上げると朝美を見据え、なんでもない口ぶりで返したのだった。


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