不思議電波塔
足音がした。
誰?
涼はそちらの方を窺いたかったが、ピアノを弾く手を止めると、階段が崩れるのが早まってしまうのでは、という理由ですぐには窺えなかった。
「涼ちゃん、そのまま弾いていていいよ」
優しく響いた。
この声は──四季の声だ。
四季はピアノのすぐそばまで来ると、涼に顔が見えるようにピアノに片腕をもたせかけた。
「四季くん」
「ナイス選曲、涼ちゃん。月光ソナタの第1楽章は静かだから、小さく鳴っているワルトシュタインの音も聴き取りやすい」
「ふふ。月光の第3楽章になる前に四季くんが来てくれて良かった」
四季の目が宙を泳ぐ。
月光ソナタの第3楽章は凄まじく速いのだ。
「そうだね。月光の第3楽章と逆行ワルトシュタインの第1楽章が被った日には」
「音符の嵐になるね」
涼が笑った。もうすぐ第1楽章が終わる。
「四季くん、逆行ワルトシュタインの方、何処まで来ているか聴き取っていて。涼、いつでも代われるようにしておく」
「わかった」
四季は耳を澄ませる。
逆行のワルトシュタインは第2楽章の冒頭の部分まで来ているようだった。
涼が静かに最後の和音を押さえると同時に、ワルトシュタインの第2楽章の最初の音が鳴った。
まずい。
「四季くん」
「涼ちゃん、代わろう。ワルトシュタインの第1楽章の最後の方、フェルマータが入るところがあるから大丈夫。音は取れる」
涼は四季と椅子を代わる。
ワルトシュタインの第1楽章の最後の和音が鳴り、アレグロの旋律が逆行しはじめた。
四季は逆行の音を捕らえながら、弾き直す時のイメージを作る。
いきなり楽章の最後の方から弾くというのは気分の切り替えが恐ろしく難しい。
落ち着いて。
かけ降りるようなスケールの手前の和音を四季は狙い、すっと指をおろした。
正確に和音が繋がり、涼はほっと胸を撫で下ろす。
もう大丈夫だ、と思えたのは、第2楽章に入り、四季が涼の顔を見て微笑んでくれた時だ。
「もう大丈夫。涼ちゃん、由貴たちと話をしてきて」
そう言われて、涼は初めて壁に絵が出現していることに気づき、四季の演奏の邪魔をしないように、それ以上は何も言わず、四季に目で合図だけを送った。