桜の咲く頃に
「あなた、あたしには隠し事はしないでね」
 あまりにきっぱりと言われて、一幸はたじろぐ。
「……あの時、もう一人いたような気もするんだけど……自分でもよくわからないんだ……」
「そう……あともう一つ聞きたかったことは、どうしてあのトイレなのよ? 朝ラッシュ時の駅構内って人で溢れてたでしょう。それなのに、よりによって改札から離れた地下通路のトイレまで行くなんて……人込みの中かきわけて進んだの?」
「それが……急に腹の調子が悪くなって……改札近くのトイレに駆け込んだんだけど、あいにく満員で、地下道のトイレならすいてそうな気がして……」
 奥歯に物が挟まったような歯切れの悪い返答に苛立ちを覚え、美穂は話題を変える。
「……それでこれからどうすんのよ、その膝? 膝の裏側の靭帯損傷とか言ってたよねえ」
 ぐるぐる巻かれた包帯の下には、冷湿布が貼られている。
「何かにつかまりながらなら、どうにか歩けるけど、階段の上り下りができるようにならないことには、うかうか外にも出られないなあ?」
 美穂の刺すような視線を避けるように、見るとはなしに窓の外に目を向けた。
 桜の花びらが、夕陽に照らされて黄昏色に染まっている。 
「それにしても、加恋が部活で遅くなったとき暗い夜道を一人で歩いて帰ってくるのが心配だから、もうちょっと通学に便利な所に住もうって、あなたが急に言い出すもんだから、慌てて引っ越したのに、こんなことになるなんて……あたしだって、ネットで物件探し任されてがんばったんだから……」
 せっかくの苦労が無駄になったとでも言いた気だ。
「……悪かったなあ……」
 それだけ言うと、一幸は口をつぐんでしまった。
「……全治1ヶ月とか言われてたけど、ゆっくり休んで、早く元通り元気になって、しっかり働いてもらわなきゃ。CTとレントゲンで8千円って高くない? 思い掛けない出費で困るわあ」
 それにしても、この臭いって何? 頭がくらくらする。トイレの床に蹴り倒されたりしたからかしら? 
 そんなことを心の中で呟きながら、美穂は部屋を出ていく。
 一幸は目を閉じて心を静めようとするが、そんな気持ちとは裏腹に、昼間の出来事が鮮明に脳裏に甦ってきた。
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