桜の咲く頃に

おやじ 3月31日

 すでに陽が傾き始め、空が黄昏色に染まっている。
 薄暗い部屋の中で話し声が聞こえる。
「……ねえ、あなた、あたしの話聞いてるの?」
 ベッドに横たわっていた蓮沼一幸は、聞き覚えのある声にぼんやりと薄目を開けた。
「あ、ごめん、ごめん。まだ頭に鈍痛が残ってて……」
 本当は、「こんなことでもなければ、二人で向き合って話すことなどなかった」と言いたかった。前にまともな会話をしたのがいつだったのかさえ思い出せない。
「……それで、加恋はまだ帰ってこないのか?」
「一度昼に帰ってきたんだけど、友達とまた出かけたのよ、家に食べる物がなかったから。あたしお昼の仕度できなかったでしょう?」
「そっか」
「でも、精密検査で頭に異状が見つからなくてよかったじゃない。まだ腫れはひかないけどね」
「……あれだけ強く頭打ちゃあ、脳に致命的な損傷受けてもおかしくないって医者が言ってたよ……美穂、急に病院まで出てこさせてお前にも世話掛けたけどな、看護士から聞いたんだけど、救急車で運ばれていったから、すぐ診てもらえたんだって。普通なら待ち時間も含めて5時間くらいかかるんだって」
「あなた、慌ててトイレに駆け込んで、膝をひねって倒れて、個室のドアで頭打ったって病院で言ってたけど、本当なの? あたしにだけは、本当のこと話して」
 不意に美穂の視線が刃物のように鋭く冷たくなった。
「……わかったよ。トイレに入ったときに、ちょうど出ていく若い奴と肩がぶつかったんだ。たったそれだけのことで、こんな痛い目に遭わされるんだから、たまっちゃもんじゃない。目が合った次の瞬間、いきなり膝に蹴り入れられて、とどめは脳天に踵落しよ。一撃一撃に力を込めて蹴り込んでくるような感じで、衝撃が内臓に響いてきたよ。情け容赦もないっていうのは、ああいうことをいうんだろうな」
「それでも、あなた、警察に訴えなくてもいいの?」
「いいんだって。ドキュンを甘く見ちゃいかん。警察に訴えようものなら、どんな仕返しされるかわかったもんじゃない。刑務所に入れられたとしても、これくらいの事件じゃしばらくすれば、出てくるんだから。このごろ、連れ子虐待のニュースが頻繁に流れてるだろ? あれだって大方ドキュンの仕業だ。幼児を平気で殴ったり蹴ったりする奴らだ」
「でも、そいつの顔見たんでしょう?」
「う~ん、金髪に近い茶髪で……顔はよく見れなかったんだけど、野外スポーツ観戦のときとかに着るコートってあるじゃないか。あれって何て呼ぶのかなあ? ビラ配りの人もよく着てる」
「ベンチコート?」
「そうそう、黒のベンチコート着て、人を見下したような目でにやついてやがった。ただ
……」
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