桜の咲く頃に
 案の定二人の姿は男子トイレに消えた。
 里緒奈の表情が変わった。
 すばやくレザー手袋をはめ、トイレに駆け込む。
 人の姿はなかったけれど、耳を澄ませば、一番奥の個室から、押し殺した複数の息使いが聞こえてくる。
「警察だ! そこにいることはわかっている! 速やかに出てこい!」
 毅然としたややハスキーな声が響いた。
 個室に動きはない。
「さっさと出てこい! さもなければドアを蹴破る!」
 里緒奈は声を荒げた。
 ゆっくりドアが開いて、服装の乱れた中年男と女子高生が出てきた。
 男の額には汗が浮かび、目は血走っている。少女は放心状態だ。
 里緒奈はすかさずデジカメでツーショットを撮る。
「さ、君は逃げなさい。後はあたしに任せて」
 少女はよろよろとした足取りで出ていく。
「松葉杖ついて出勤かよ。思ったより回復早いな。この前はどじったけど、今日はきっちりと落とし前をつけてもらうよ」
 そう言い終わるか終わらないかのうちに、里緒奈は男に駆け寄り、ズボンの下がった男の股間を思いっきり蹴り上げた。ばたりと床に崩れ落ちた男の後頭部に、容赦なくハイヒールの踵を振り下ろす。間髪を入れずに、ぐったりした男の胸倉をつかみ、鼻の下に鉄拳を叩き込む。男の体を引きずり一番奥の個室にぶち込むと、内側から鍵を掛け、すばやい動きでドアによじ登り、瞬く間にトイレを飛び出した。
 静寂が戻ってきた。
 男は意識不明のままだらしなく便座に座らされていた。
 男の背後の壁に、血のようなものが垂れた跡があった。
 最初は薄かったが、男が壁にもたれ掛かると、みるみるはっきりしていく。あっという間に人型の赤黒い染みがくっきりと浮き出てきた。
 ちょうど染みの辺りから一瞬白い霧状のものが噴出したかと思うと、血の気のない白い細腕が突き出てきた。
 ただならぬ気配を察したのか、男は不意に意識を取り戻した。
 恐る恐る辺りに視線を彷徨わせる男の顔の横に、漆黒の長い髪がすーっと垂れてきた。
 薄汚れた白壁より白い女の顔の中で、目だけが血走っている。
「うわあああーっ!」
男の叫びが響き渡る。
 女は男の頭をつかみ、引き寄せるように壁にぶち当てた。
 ごつんと鈍い音がして、ずり落ちた頭から、血がどくどくと溢れ出し床に広がっていく。
 女は真っ赤な舌で唇をぺろりと舐めた。
 すぐ近くを巡回していたのか、立花がトイレに駆け込んできた。
 一番奥の個室のドアの下から、赤い液体が流れ出ている。
 立花は顔色も変えずに、すばやくトイレを出ていく。人込みの中に紛れ込むと、携帯を取り出してメールを打ち始めた。
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