私の好きな人は駐在さん


「なんでだろう?橘さんが、いそうな気がしたから、かな?」

えっ……

私は息をのんだ。
そして、一瞬にして、リンゴにも、真っ赤なルージュにも負けないくらい真っ赤な顔になったことは言うまでもない。

「なーんてね。」
ははは、と彼は軽やかに笑った。

「ですよね……」
私は急に拍子抜けした。
まさかそんなわけないとは私はちゃんと心得ていたけれども、それでも少し拍子抜けしてしまったのである。

「実はね、このあたりに、僕の姉が住んでいて。お互い今は一人暮らしをしてるんですけど、電車を乗り継げば来られる範囲内に住んでるので、頻繁に会ったりしていて。姉にはいいように小間使いさせられているんですよ。それでね、今日も、ちょっとした用事を頼まれて、そのお礼に晩御飯をごちそうになって…あ、姉はもう結婚してるんで、姉夫妻の団欒にお邪魔して、っていう形だったんですけれどね……それで、ちょうど、家に帰ろうとしていたところだったんです。」
彼の穏やかな声が、闇にしっとりと響く。恐ろしいくらい美しい色調を奏でながら。

「それにしても、びっくりしました。あなたにこんなところで会うなんて。誰か女性が倒れているなって、遠目で見てわかったんですよ。僕、目だけは小さい時からいいんでね。ハハハ。それでね、駆け寄って行って、その女性の顔が見えてくるわけじゃないですか、それでよく見てみたら、どこかで見たことあるな、っておもって……駆け寄ってみると、橘さんじゃないですか、ほんと、びっくりしました!
とはいえ、ほんとはそんな悠長なことを考えられないくらい、テンパってたんですけど。」
そういって、さわやかに笑った。
どうすれば、こんなにさわやかで、嫌みのない笑い方ができるのだろう。
今まで聞いてきた笑い声の中で最も心地のいい笑い声だと、私は大きなあったかい背中にふれながら子守唄のように聞いていた。


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