ユアサ先輩とキス・アラモード
第一章
「中林。さあ、俺にキスして。飛び切りセクシーにね」
湯浅遼は英国紳士のように整った品の良い顔立ちに意地悪な笑みを浮かべ、真帆を見た。真帆は心臓が激しく鼓動を打ち、体中が熱くなるのを感じた。色っぽい奇襲攻撃に、何も言えない。何も考えられない。
 湯浅が寄りかかっているのは、弓道場の出入り口。そこを通らずして帰れない。湯浅は真帆の退路を絶っている余裕を存分に醸しつつ、女性二人を抱きしめられそうな長さの腕を広げ、海外ブランドのジーンズを切らずして履ける長い脚の左に重心をかけ、ハリウッドスターのように餌食が飛び込んで来るのを待った。真帆は密に吸い寄せられるチョウのようにフラフラ飛んでいきそうになったが、崖っぷちでどうにか押しとどまった。そして突きつけられた難問へいかにして立ち向かうか、必死に考えた。
 真帆はチラリ、と湯浅を上目づかいで見た。下を向き真一文字に口を結ぶと、眉間にシワを寄せ、今度はしっかりと彼を見た。
「あの、お言葉ですが、毎日する必要はありますか?」
「ある。約束したからね」
「それはそうですけど……でも、契約書とか交わしていないですし」
湯浅はレーザービームのような鋭い視線を投げ飛ばした。真帆は間一髪で避けた。
「今さら四の五の言うな。往生際の悪い奴は嫌いだ」
「で、でも」
「キスをしないなら、中林の指導は今日限りやらない。それでもいいならやめよう」
「それは、困ります」
しびれを切らしたらしい湯浅は、優雅な足取りで真帆に近づいてきた。目の前に立つと、真上から真帆を覗き込んだ。超ド級のイケメンは、間近で見ると危機を感じさせる。どんなひどいお題も、抗えない気がした。
 真帆は持ちうる背筋力を最大限使って背中を反らし、難題も危機も避けるつもりだった。しかし入部して二週間しか鍛えていない軟弱な背筋は、すぐにプルプルと震えだした。
「どうする?するか、しないか」
さらに湯浅は顔を近づけてくる。真帆は心の中で無理、と叫びながらも体を逸らせた。すると背筋は戦いをそうそうに諦め、バランスを崩し横向きで床に倒れそうになった。真帆は来るべき痛みを少しでも減らそうと、体を丸めた。
 痛みは襲ってこなかった。いつまでたっても。



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