クロスリング
一章「」


「ルイ、そっちの窓も開けてくれる?」


 マライア・キャリーの曲が流れる車内で、運転中の母が待ちきれないとばかりにバッグの中をまさぐりながら言った。
私は直ぐに、助手席側の窓を開けた。四月の朝の肌寒い風が、煙草の匂いの染み着いた空気と入れ替わっていく。

赤信号になるのを見計らって、母はパーラメント・ライトに火を点けた。私が見てきた限り、お気に入りの煙草の銘柄だけは一度も変わっていない。
美味しそうに肺の中に有害物質を取り入れる様子を見て、この人は本当に看護師なのかといつも疑問に思う。

 つい昨日まで住んでいた街から出発して、二十分くらい経ったところで、見覚えのある川が見えてきた。車から見下ろすと、川辺には既にちらほらと釣りびとがいた。
子供の頃、毎年夏になると幼なじみの両親に連れられてバーベキューに来たことを思い出す。


「ルイ?」


 橋を渡り切るまで川を眺めていると、母が不思議そうな声色で私を呼んだ。振り返ると、少し驚いた顔をしている。
そこで初めて、私は自分が窓から身を乗り出していたことに気づいた。


「おばあちゃんち着いたら、今日中に荷ほどき終わらせちゃおうね」

「…うん」

 らしくないことをして、少し恥ずかしくなった私は体勢を直しながら素っ気なく頷いた。
そんな私に小さく笑って、母が続ける。


「急に引っ越すことになってごめんね。おばあちゃん、うちに呼べれば良かったんだろうけど、おじいちゃんが建てた家を手放したくないだろうと思って」

「…別に、今の高校に通えない距離じゃないから」

 
 一時間は早く起きなきゃ行けなくなるけど、と言い掛けてやめた。今もう既に申し訳なさそうな顔をしている母に、追い討ちをかけることになると思ったから。
 

 仕事命の母が、勤務先の病院を変えてまで引っ越をしたがった理由は、一人暮らしで長年糖尿病を患っている祖母を側で看るためだ。
引っ越しと言っても全く知らない土地に行くわけじゃないし、私はそんなに気にしていなかった。だって、幼い頃祖父と祖母に育てられた馴染み深い家に戻るだけのことだから。
何より、高校も変わらず通えるので、転校生のあの気まずい気分を味あわなくて済む。
でも母の方は、私が笑顔で大丈夫だよ、と言わない限り不安そう。
笑顔が苦手な私は、音楽に浸るふりをしてきゅっと目を閉じた。

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