光のもとでⅠ
 駅に着くと、まずは翠の用事を済ませることにした。場所的にも一番遠い楽器店から行くのがいいだろう。
 そのあとは姉さんに頼まれてるコーヒー豆の買出しと、最後にデパート。
 時間が時間ということもあり、改札階に上がるエスカレーターは程よく混んでいた。
 翠の用事はスペア弦を買うことだったか……。
 ハープと言われて頭に浮かぶのは、翠の家で見たフロアハープではなく、昨日、抱きしめるようにして弾いていた小さなハープ。
 状況が状況だったからかもしれないが、その記憶のほうが鮮烈だった。
「ハープ、昨日弾いてた曲名は?」
「え……?」
「昨日、繰り返し同じようなフレーズ弾いてたけど……」
 原曲があるなら聞いてみたいと思った。けれど、翠から返ってきた答えは、
「……ごめんなさい。私、あまりそのときのこと覚えてなくて……」
 そうだった……。
 今朝、翠は何事もなかったかのように栞さんの家から出てきたのだ。弾いている記憶など無に等しいのかもしれない。
「……大丈夫なの?」
 雅さんの言葉にショックを受けたからあんな状態に陥ったんじゃないのか?
 じっと翠を見つめるも、翠は要領を得ない顔をしていた。
「いや、なんでもない」
 本人の意識下にないのなら俺が傷を抉る真似はしないほうがいい。
 視線を前方に移すと、
「なんか、司先輩らしくないですね」
 投げられた言葉に自身のセンサーが反応した。
「俺らしいって?」
「うーん……俺様?」
 そんなことを言うのはこの口か……。
「いはいえふ(痛いです)」
 思わず隣を歩く翠の両頬をつまんでいた。
 "魔が差した"と言葉を吐く人間を侮蔑の目で見てきたけれど、ほんの少し気持ちがわかったような気がする。
「俺、そんなに傲慢なつもりはないけど?」
 その言葉に翠はクスリ、と笑う。
「そういう物言いのほうが先輩らしくて好き」
 最後の二文字に全身が反応しそうになる。けれども言った本人は気にも留めていない。
「だから性質が悪いんだ……」
「え?」
 聞き返されたけど、何を答えるつもりもなかった。
 "好き"なんて、サラッと言ってくれるな――。

 楽器店に着いた途端、翠は勝手知ったる……というように歩きだした。
 真っ直ぐスペア弦の売り場に向かうと、いくつかの袋を手に取り、その隣にあった書棚に目を移す。視線を固定してから十秒後、くるりと振り返り、
「少し楽譜を見てもいいですか?」
「かまわない」
 翠が手に取ったスコアはモーツァルト。ハープのスコアではなくピアノ曲。
 ピアノといえば、初等部の頃に習わされていた。が、やめてからは一度もピアノには向かっていない。
 以前、翠の家に行ったとき、本棚にはショパンの曲集ばかりが並んでいた。
 それを見て、母さんと好きな作曲家が同じだと思った記憶がある。
 母さんがショパンを好きになったきっかけは、静さんの生みの親、静香(しずか)さんの影響だと聞いていた。
 その静香さんも今は亡き人。俺は会ったことすらない。
 栞さんは後妻の柊子(しゅうこ)さんと怜(さとし)さんの間に生まれた子で、静さんとは腹違いの兄妹になる。
 栞さんが生まれたときには静さんがすでに十五歳だったこともあり、十五歳も差があればうまくいかないなんてこともなかったようだ。
 怜さんは藤倉に住んでいたものの、柊子さんが地元のほうが落ち着くという理由から、幸倉に住まいを移した。
 今では翠の家とは目と鼻の先、という距離に実家があるらしい。
 ふと翠に意識を戻すと、スペア弦とピース売りのスコアを購入していた。
 楽譜のタイトルは、ラフマニノフ嬰ハ短調プレリュード。それはいったいどんな曲なのだろう――。

 楽器店を出ると、西日が眩しかった。
 外はまだ明るく、陽射しも強い。
 六月とあって、あたりが暗くなるまでにはまだ時間があるようだ。
 駅までの道を歩きながら、
「ピアノとハープ、どっちが好きなの?」
 隣を歩く翠の顔色を気にしつつ尋ねると、
「んー……長くやっているのはピアノです。ピアノは三歳から、ハープは小学五年生のときから。どちらも好きですけど、表現しやすいのはピアノかな? 長く弾いてきた分勝手度合いが違うみたいで」
 気温がそれなりに高い割りに、翠は汗ひとつかいていなかった。
 体温調節はできているのだろうか……。
 そんなことを考えながら、以前御園生さんが話していた情報を引き出す。
「ピアノはベーゼンドルファーが好き?」
「なんで……って蒼兄しかいないですよね」
 ようやく情報の一切が実の兄から漏れていることに気づいたようだ。
「当たり。うちの学校にベーゼンドルファーがあるって知った途端、あの人の目輝きだしたから」
「でも、私、その話は蒼兄から聞いてなかったんです。オリエンテーションでミュージックホールを回ったときに先生の説明で知りました」
「近いうちに弾かせてもらえるよう手配する」
「え!? 本当ですか!?」
 翠は歩みを止めて俺を見上げた。その目の輝きぶりが異様すぎた。
「食いつき良好すぎないか?」
「だってっ、ベーゼンドルファーですよっ!?」
 翠にとってはそれくらい思い入れのあるピアノなのだろう。
「……それ、また貸しになったりしますか?」
 急に仕草が小動物っぽくなる。
「さぁ、どうかな」
 笑みを添えて答えてみると、それでも弾きたそうにもじもじとしていた。
 ピアノはすでに手配済み。
 万事問題なしというメールがさっき茜先輩から届いた。
 翠も、まさかピアノとの対面が明日だとは思っていないだろう。
 ピアノを前にしたらどんな反応が見られるだろうか。

 駅前まで戻り、コーヒー豆を買うついでに休憩を取ることにした。
 具合が悪そうには見えない。けど、具合が悪くなってからでは遅い。それなら、適度に水分補給くらいはさせたほうがいい。
 翠はルイボスティをオーダーし、俺はアメリカン。
 席は店内と屋外の間くらいの場所。
 ここならエアコンが利きすぎて冷えることもないだろうし、外の外気をまともに食らうこともない。
 コーヒーを一口飲み、カップをソーサーに戻す。と、翠が笑った。
「何を笑ってる?」
「先輩、いつもコーヒーを飲むときに少しだけ表情が優しくなるんです。それを見れると得した気分になれるの」
 穏やかに笑って嬉しそうに話すから謎が深まる。
 どうしてそんなことで得した気分になれるんだか……。
「ずいぶん安上がりだな」
 それが正直な感想だった。
 コーヒーを飲む間、とくに会話らしい会話はなく、翠は道を行く人を見て楽しそうにしていた。俺はそんな翠を観察していただけ。
 翠はいつもカップを両手で持つ。まるで大切なものを包み込むように、掬い上げるように。
 そんな仕草は優しさや慈しみなんて言葉を連想させる。
 その華奢な手を外側から包みたい。でも、翠が求めるのは俺の手ではなく、秋兄の手なのだろう。
 でも、翠はその手を拒む……。その手に包まれることを選ばない。
 そうして華奢な手を震わせるのだろうか。そして、自分の兄へと逃げ込むのだろうか――。
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