光のもとでⅠ

19~22 Side Tsukasa 02話

 コーヒーを飲み終えると、まだ飲み終えてない翠をテーブルに残して席を立った。
「ちょっと待ってて」
 コーヒー豆を買うだけだからそんなに時間はかからない。
 カフェスペースを出てショップフロアに立ち入ると、カウンター内にいる店員に声をかけ、姉さんの好きな豆と自分の好きな豆をオーダーした。
 うちの人間はコーヒーと抹茶を好む。どちらにも共通していることはカフェイン含有量が多いこと。
 皆が皆、カフェイン中毒なのではないか、と思うくらいだ。
 会計を済ませ、カフェに目をやると、翠が見知らぬ男と話をしていた。
 男はずいぶんと親しげに話しかけるが、翠の知り合いとは思えない。
 急いでテーブルに戻り、彼女の腕を掴んだ。
「翠」
「あ、先輩……」
 後ろから現れた俺に驚いたのか、翠は目を見開いていた。
「彼女に何か用でも?」
 ホストのようななりをした男に視線をやると、
「ちっ、男連れかよ……」
 男は近くの椅子を蹴り上げ、人ごみに紛れるようにして姿を消した。
 警護が解除されたことを知っていたから翠をひとりにした。
 迂闊だった。油断した――。
 昨日の秋兄ではないが、不覚と言わざるを得ない。
 翠に視線を戻すと、俺の表情をうかがっているようだった。
 こいつは今のがなんなのかわかっているのだろうか……。
 不安に駆られて尋ねる。
「翠、今の何かわかってる?」
「今の……? 今のが何かって、何がですか?」
「っ――世間知らずにもほどがあるだろっ!?」
 自分でも驚くほどの怒声だった。
「ごめんなさいっ」
 すぐに謝罪の言葉を口にした翠は身を小さく縮めていた。
 その肩はしだいに小さく震えだす。
「ごめん、なさい――でも、理由がわからない……。どうして? どうしてそんなに怒ってるんですか?」
 理由を求める翠は本当に何も知らないのかもしれない。
 ひとつ深呼吸をして自分を落ち着ける。
「……大声出して悪かった。今の、ナンパだから。もしくはキャッチ。ついて行くと痛い目みるよ」
「ナンパ……? キャッチ? それは何?」
 言葉すら知らないとか、あり得ないと思う。……けど、翠ならあり得る気がして自分の常識が通じないことを痛感した。
「――要は、体目当てに女を漁ってる連中」
 途端に翠の目が泳ぎだす。その目に、じわりじわりと水分が浮かび上がり始めた。
「ごめん……泣かすつもりはなかった。ただ、翠があまりにも無防備すぎるから」
「ごめんなさい……。でも、ちゃんと人を待ってるって伝えたし、ついていこうなんて思ってなかった――」
 言われてみればそうだ……。翠は男が苦手だ。
 それは今日、漣と話しているところを見て再認識したところだった。
 声をかけられてもついていくわけがない。でも、翠についていく気がなくても連れていかれることは大いにあり得る。
「悪い……立って、少し歩ける? ここで話すような内容でもないから」
 俺が大声を出したことや翠が泣き始めたこともあって、周囲の視線が集まりだしていた。
 そんなカフェをあとにし、街路樹の下にあるベンチまで手を引いて歩いた。
 翠をベンチに座らせると、翠は涙を零しながら俯いた。
 きちんと顔を見て話したかったから、翠の正面に膝を付き、下から見上げる体勢を作る。
「さっきみたいなの初めて?」
 コクリと頷く。
「今まで一度もなかったわけ?」
 翠みたいなのが歩いていれば適当に声をかけてくる輩がいても不思議ではない。
 そのくらいには人目を惹く容姿をしている。
「ないです。だって……ここまで来るときは両親か蒼兄が一緒のときだけだし……」
「なるほど」
 思わずうな垂れたくなる。
 この世間知らずは間違いなく御園生さんに育成されたものだ。
 あり得ないと思ったけれど、御園生さんの過保護のもとにいた翠ならばあり得ることだった。
 俺は諦めの境地で口を開いた。
「この駅周辺、ああいうの多いから。翠の性格を考えると難しいかもしれないけど、ああいうのは無視するんだ。じゃないと付け込まれる。ひどい場合は力ずくで連れていかれる。――ひとりにして悪かった」
 翠がこういう人間だってある程度わかっていたにも関わらず、ひとりにさせた俺も悪い。
 翠は何かを考えているふうで、首をかしげながら、
「……人攫い?」
「…………ちょっと違うけど、まぁそんなところ。少しえぐい言葉を使うならレイプ。連れていかれたら強姦されてもおかしくない」
「っ……!?」
 翠の顔が、体が再度強張りだす。止まった涙までもが再び流れ出した。
「ごめんなさい……。本当にごめんなさい」
「わかればいい……。二日も続けて泣き顔なんて見せるな」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていいから。少し落ち着いて……頼むから泣き止んでほしい」
 泣かせたいわけでも泣き顔が見たいわけでもない。
 つい一昨日、痛い思いをする前に誰かちゃんと教えろよ、と思ったところだというのに、なんで俺が一緒にいるときなんだか……。
 "ついてない"の一言に尽きる。
 でも、翠が完全にひとりのときじゃなくて良かった。自分がついているときで、良かった――。
 泣いている翠は鼻をすすると、
「手……少しだけ貸してもらえますか?」
「……手?」
 不思議に思いつつ右手を差し出すと、翠は俺の手に両手を添えた。
 それはまるでカップを包むみたいな動作で。
 華奢な手から伝わるのは冷たさ……。
「ひどく冷たいけど……」
「体温、少しだけ分けてください」
 翠はまだ涙が完全に引かない目で、困ったように笑う。
「……寒気は?」
「いえ……ただ、手首まで冷たくなってしまってちょっと痛くて……」
 翠の手首に触れると、あり得ないほどに冷たくなっていた。
 今、六月だよな……。
 ふと、そんなことを考えるくらいには冷たかった。
 翠の隣に座りなおし、右手と左手、両方の手首を掴みあたためる。
 自律神経失調症の人間は、精神的ストレスを受けるとそれがダイレクトに体に現れる。
 翠のこれもその一種だろう。
「……悪い、すごい緊張させた」
「いえ……知らない人に声をかけられた時点で緊張はしてましたから……」
「だから、ひとりにして悪かった」
「……先輩、ごめんと悪い禁止です」
 そう言って笑う翠は幾分か落ち着いたように見えた。
 翠が泣く場面に居合わせたいわけじゃない。けど、泣き顔から笑顔に戻る瞬間が見れるなら、それも悪くないように思えた。
「ありがとうございます、もう大丈夫……」
 赤く充血した目で笑みを添える。
 確かに、いつまでもここにいるわけにはいかないし、最後の用も残っている。
「じゃぁ、最後の用事」
 先に立ち、立ち上がる翠に手を貸す。
 ゆっくりと立ち上がると、一瞬だけ手に力をこめられた。
 翠は何も口にしないけど、きっと眩暈を起こしていたんだろう。唇を見れば、きゅ、と真一文字に引き結んでいた。
 何かに耐えるように、負けないように……。
 もう、かなりつらいところまできているのだろう。それでも投薬を遅らせるのは、秋兄と会うため、か――。
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