光のもとでⅠ
 デパートに入り、五階まで上がる。
 このフロアは呉服売り場だ。その中の小物売り場へ足を向けると、
「呉服売り場、ですか?」
「そう」
「なんの用事……?」
「あとで」
 着物が好きだというだけあり、翠の関心はフロアの端々へ向けられる。途端に歩くペースが落ちるほどに。
 フロアを進むと、重行(しげゆき)さんが俺に気づいた。
 重行さんは周防呉服店の専務で、兄の重正(しげまさ)さんは経営にはノータッチで柘植櫛の職人をしている。
「司ぼっちゃん、いらっしゃいませ」
「オーダーしたものはできてますか?」
「はい、届いております。バックルームから出してまいりますので少々お待ちください」
 後ろから、
「先輩の着物です?」
 きょとんとした目が俺を見上げていた。
「違う」
「……でも、着物、似合いそうですよね?」
 それは弓道の袴姿から連想しているのだろうか。
 着物が好きだという翠は、五月にある藤の会に来たら喜ぶかもしれない。藤の花はきれいだし、藤の会に来る人間は誰しも着物を着ている。
 でも、雅さんもいるか――。
 ふと昨日のことを思い出す。
 俺も秋兄も、昨日の出来事は静さん以外に話してはいない。
 せめて御園生さんと姉さん、栞さんには言うべきだと思った。でも、俺も秋兄も言うことができなかった。
 そんなことを考えていると、自分の手から翠の手が離れそうになる。
 翠が行こうとしていたのは小物売り場。しかも柘植櫛が置かれているショーウィンドウ。
 思わず、「だめ」と口にして手をつなぎ直す。
 翠はさっきのことがあったからか、抵抗はせずにおとなしく従った。
 さすがにここで何かあるとは思っていない。ただ、これから自分がプレゼントするものを事前に見られたくなかっただけ。
 そこへ重行さんが戻ってきた。
「商品のご確認をお願いします」
 言われて、翠の手を離し箱の中身を確認した。
 そこには、桜の彫刻が見事な柘植櫛がふたつ入っていた。
「じゃ、これを包んでください」
 包装を終えたものを手渡され、呉服売り場をあとにした。

 バス停に着くと、
「夕飯、始まっちゃったかな?」
 翠が時計を見ながら口にした。
「それまでには帰る予定だったんだけど……」
 予定外なことがひとつ追加されただけで大幅に時間を押していた。
 でも、翠にとってはいい勉強になったんじゃないかとも思う。
 翠は栞さんにメールを送ることにしたらしく、先ほどから携帯をいじっていた。
 その動作が恐ろしく遅くて目を瞠る。
 嵐や茜先輩と比べたら雲泥の遅さだ。
 これでピアノやハープを弾かせたら鮮やかな指捌きを見せるのだから不思議でならない。
 始発のバスに乗り、行きと同じようにふたり掛けの椅子に座る。人は次から次へと乗車してきて、行きよりもだいぶ乗車率が上がった。
 バスが走り出し、相変らず嬉しそうに外を眺める翠の膝に紙袋を乗せ、
「はい」
「え……?」
「数日遅れたけど誕生日プレゼント」
 翠は膝の上に置かれた手提げ袋を避けるように、「小さく前へ習え」的な姿勢で俺を見る。
 声をかけなければずっとそうしていそうだった。
「開けてみれば?」
「……ありがとうございます」
 袋から箱を取り出すと、包装紙を破かないようにペリペリと小さな音を立ててそっとテープを剥がしていく。
 和紙で作られた箱に、「柘植櫛」の文字が見えた瞬間、目をまん丸に見開いた。
 白い指先がそっと箱を開ける。
 柘植櫛を目にすると、じっとそれを見つめ、「桜?」と口にした。
「そう。ほかに撫子や梅、あやめがあったけど、なんとなく桜って気がしたから」
「……先輩、ありがとうございます。すごく嬉しい……」
 ここまで嬉しそうに笑うのは初めて見たかもしれない。アンダンテの苺タルトに勝った気分。
 それくらい、柔らかくふわっとした表情を見せた。
 その表情のまま櫛を手に持ち、長い髪に通す。と、もっと嬉しそうに笑って、
「わぁ……本当に嬉しい」
 と、口にした。
「……喜んでもらえて良かった」
「本当にありがとうございます」
 そう言ったあともずっと嬉しそうに櫛を眺めたり、髪を梳いたりしていた。
 まるで外の景色なんてどうでもよくなってしまったように。
 自分の用事を一番最後にして良かった。
 その櫛で、怒鳴ったことも泣かせたことも、全部帳消しにしてくれると嬉しい。
 できれば、雅さんに会ったことも……。
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