転倒
本文
 その日は雨だった。

 電車を待つ列に並びながら、妻に電話を掛けた。

「先週、僕の母さんがケガしたみたいなんだ」

 当の本人からメールが入っていた。母はもう既に老人の域に入っている。

「どうせ大したことないんじゃないの?」

 妻が素っ気なく答える。

「自転車で、転んだみたいなんだ」

 妻の反応には構わず、話を続ける。

「擦り傷程度なんでしょ?」

「いや、町医者で骨折と言われて病院を紹介され、そこでは腱が切れてると言われたみたいなんだ」

「ふうん」

「明日、様子見に行ってこようかと思う」

「そう。なら、晩御飯は要らないわね」

「夕食は帰ってから食べるよ」

「食べて帰っといでよ」

「いや、帰ってから食べるから」

 言い終わると、モヤモヤしながら電話を切った。話さなければ良かった、と思った。

 元気な母だったが、足が不自由になれば、老け込んでしまうかもしれない。

 動けない母のために、取り急ぎ、マジックハンドが浮かぶ。丁度、介護用で家に一本あったのだが、持ち出したら妻に何を言われるのか分かったものではない。

 気を取り直し、携帯電話からネット通販を利用する。送り先を実家に設定するも、サイトからカードの再登録を求められたところで、手続きをやめた。

 程なく思い直し、やはり、家にあるものを持って行き、後から買い直すことにした。どんよりした気分から抜け出せない。

 そんな時、上品な初老の男性が、私の前にすうっと入り、並ぶ。

 普段は少々の不利益があってもやり過ごすのだが、その日の私は違ったのだろう。

 注意されないと鷹を括っていたのか、貴方の仰ることが正しい、と繰り返しながら男性は消えた。

 後悔しつつ、とぼとぼと家にたどり着くと、妻が子供たちが寝たこと、そして今日の家事の成果を、止めどもなく話した。

「最近、景気の悪い話ばかりで暗いのに、母さんの怪我。そんな時の君の言葉。悲しくなるよ」

 ソファに腰掛けて、半ば呟くように言った。

「悪かったわよ。ごめんなさい」

「いや、それでも失敗したのは僕の方だ」

 少しでもリスクを避けなければならなかった。それが家族を持つということだ。私はリスクを侵した。

「何かあったの?」

「いや、もう大丈夫」

 今日が終われば、また、明日が始まる。

 私は母を見舞いに行くのだ。
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