エスメラルダ
第十五章・風が動く時
 国王の華燭の典を間近に控えた四月一日、五日前に生まれたブランシールとレーシアーナの子供の、命名の儀が執り行われた。
 名付け親はフランヴェルジュ。それはブランシールのたっての願いであり、フランヴェルジュは快く引き受けたのである。
 赤ん坊の名前はルジュアイン。
 青い瞳が美しいその子供を抱き、フランヴェルジュは機嫌よくメルローア王家の子供を披露していた。その右隣には父親になったばかりのブランシールがいる。
 だが赤子はブランシールが抱くと盛大に泣き喚くのである。フランヴェルジュの左隣に居るアユリカナの腕も気に食わないらしい。
 フランヴェルジュとレーシアーナとエスメラルダ以外の腕を、ルジュアインはその凄まじい泣き声で徹底的に拒絶した。
 だが、レーシアーナは産褥の床にある。
『貴女の華燭の典までには治すわ』
 不安げなエスメラルダにレーシアーナが言った言葉。
 大切な人を喪うのではないかという不安が、ルジュアインの誕生以来、常にエスメラルダの心の中にあった。
 エスメラルダは表面は柔らかく微笑んでいた。まだ婚姻を済ませていない彼女ではあるが王家の末席が特別にあしらわれているのは、婚約発表後から変わらない。
 その席で無邪気に笑うフランヴェルジュや、子供を心配そうに見やるブランシールの顔を見ると、何となく苛々し、そしてすぐに思考はレーシアーナの事に飛び、じりじりとした焦燥感がエスメラルダの胸を焼いた。
 苛つきと焦りが、今のエスメラルダの瞳に湛えられた色である。各国は早馬で使節を送り込んでいた。
 彼らの事を見ても苛々するのでエスメラルダは何処に顔をやれば良いのか解らない。
 何よ、何よ。あんな明るい顔して笑って。レーシアーナはまだ起き上がれないのに。レーシアーナがどんなにか辛い思いをして、命を削るようにして子供を生んだかなんて知らないくせに!
 それなのに使節達はフランヴェルジュにメルローア王家の男児が生まれた事への祝いの言葉を奏上し、ブランシールによくぞ子供を無事にもうけられたと言祝ぐのだ。
 産んだのはレーシアーナなのに!!
 沢山の祝いの言葉に贈り物。
 ルジュアインは国王の実子ではないが国王が名付け親であり、将来、メルローアを担う重鎮となるであろう事は定められた事であった。もしかすればフランヴェルジュの後を継ぐ子供かもしれなかった。
 それ故、各国の使節達は堂々とした顔ぶれが並んでいた。
 式が終わり御披露目ももう充分済んだであろう事がルジュアイン自体によって知らされた。さっきまで機嫌よくフランヴェルジュの腕の中に納まっていたルジュアインが泣き出したのである。
 エスメラルダは思わず立ち上がって玉座に向かった。
「恐れながら申し上げます。ルジュアイン様はお腹が空かれた様子」
 エスメラルダは澄んだ声を張り上げた。
 突然泣かれて混乱していたフランヴェルジュはそれもそうだと納得した。もう先の授乳から三時間以上経っているのである。
「そう、もうそんな時間か。エスメラルダ、ルジュアインを頼む。母の胸が恋し……」
 その時、フランヴェルジュの声をさえぎったのは、扉が開く音と外の兵士が張り上げた声であった。
「ファトナムール王太子殿下、妃殿下、ご到着ー!!」
 フランヴェルジュはとりあえずエスメラルダに赤子を託すと王者の顔を作った。
 何故今、先触れの使者もなくファトナムールの王太子が?
 ファトナムールが戦を計画している事は、フランヴェルジュの諜報部員達がカスラの報告に遅れること三日、二日前に知らせをもたらしたばかりである。
 エスメラルダには、ファトナムールの事で、アユリカナに相談する時間もフランヴェルジュに意見を言う暇もなかった。母になったばかりのレーシアーナが、片時もエスメラルダを放さなかったからである。
 エスメラルダもレーシアーナの側を離れるなどという事は出来なかった。
 出産。どれ程の苦しみの上にその母親が子供を授かるかという事を知った上で、孤独な戦いを終えたレーシアーナの許を離れるなど出来なかったのである。
 ハイダーシュとその妻を見つめるエスメラルダの背中を、嫌な汗が滑り落ちた。
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