エスメラルダ
 それを見たハイダーシュは息を呑んだ。
 メルローアの兵士の制服は濃紺である。灰色の制服の兵を使うのはスゥ大陸では───。
 ファトナムールだけであった。
 何があった!? 一体何が!?
「……ハイダーシュ様に、申し上げたき儀、あり。……『嵐』が、起こりまして……ござい……」
 ごふっと言う音がその場に響いた。
 いやに大きな音だった。
 そして灰色の制服のファトナムール兵はその場で果てる。口周りを大量の鮮血で濡らし。
「失礼!」
 ハイダーシュは担架に走りよった。
 群れを成して固唾を呑んでいた使節達もハイダーシュの為に道を開ける。
 ハイダーシュは担架を担いでいたメルローア兵に担架を下ろすように言い、そして大理石の床の上にそれが下ろされると、兵士のブーツの中に忍ばせてあった短剣を足とブーツの間から引き抜いた。
 短剣の柄頭を押えながら左にねじると、柄がするりと抜ける。
 中には一枚の書状があった。
『嵐が国を蹂躙す』
 ただ一言、殴り書かれた書状にはロウバー三世の印章指輪の痕があった。
「ハイダーシュ殿下?」
 フランヴェルジュの声に、書状を穴が開きそうなほど見詰めていたハイダーシュははっと顔を上げた。
 何という失態!
 他国の、それもこれから戦争をしかけようという国の王の前で密書を読むとは!!
「何事です?」
 フランヴェルジュは解っていて聞く。
 昨日の夜、十九時から二十時にかけて『嵐』を起こしたとマーデュリシィは言っていた。
 それを思うと、フランヴェルジュは命を賭してやってきた兵に尊敬の念を抱く。
 何頭の馬を乗り潰してきたであろう? 飲まず食わず、馬で走り続けたに違いない。
 尤も途中までは空間転移を使ったのであろう。でなければ今日辿り着く事は不可能だったはずだ。だがあれは術者も術をかけられた者にも身体に負担が大きすぎる。
 それにしても素晴らしい速度だ。さっき十六時の鐘が鳴ったところだというのに。『嵐』の去った後は道などは酷い有様であったであろう。メルローアに入ったなら、道路が整備されているので、国境の何処から入国したとしてもその道は彩季の道へ、王城へ続いているのだが。
 ハイダーシュは唇を噛んだ。
 この男には、この男にだけは取り乱したところを見せてはならないのに!
「……めでたき席に失礼を……あい済みませぬ。お許しを。国に、戻ります。理由は申せませんが、この者の死を見てお察し下さい。……レイリエ、こちらに」
 兵士の壮絶な死に様に、皆が顔色をなくしている時、それでも必死にハイダーシュは言葉を探した。
 頭の中が大混乱である。
 ハイダーシュには『嵐』が何か解らないのだ。自然現象の嵐なのか政争や異変を刺しての嵐なのか。
 そしてレイリエの顔から血の気が引く。
 帰れば、唯一の、チャンスが、と。
 その時、マーデュリシィが叫んだ。
「妃殿下は神殿が預かりましょう。女の足は急ぐ時には重荷にしかなりませぬ。お急ぎを」
 レイリエ。
 彼女を人質として使われるわけにはいかない。少なくとも華燭の典が終わり、国情が落ち着くまで。
 戦争の準備が済むまで。
 それまでは手許で見張っていなくてはならないとマーデュリシィは思ったのだ。
 それが悲劇への鍵だと知らず、マーデュリシィは叫んだのだった。
 ハイダーシュは妻の顔とマーデュリシィの顔を交互に見詰めた。そして最後にフランヴェルジュの顔を。
 フランヴェルジュの表情は読み取れなかった。それが口惜しいと思う。
「レイリエ……」
 ハイダーシュが呼んだ瞬間、レイリエは涙をこぼした。悲しみの表情を『作る』。
 レイリエにとっては最後の機会だった。
 そして、もしかすれば最良の機会だった。
「ハイダーシュ様、わたくしの事は構わず、ご帰国を。何があったか存じませぬが、皆がきっと貴方様を待っておりまする。命賭した兵の霊に答える為にも、どうかお急ぎ下さい。わたくしは、王太子である貴方様の足を引っ張る愚かな女にはなりたくありませぬ」
 ハイダーシュはしぶしぶ頷いた。
 レイリエを連れてとなれば、馬を飛ばす倍はかかる。その間にもしもの事があれば?
 ハイダーシュは頷くしか出来なかったのだ。
 一時間後、ハイダーシュは馬上の人となり、レイリエは神殿の中に部屋を与えられた 。
 メルローア歴七百四十七年、風は動き出す。
< 126 / 185 >

この作品をシェア

pagetop