エスメラルダ
「ブランシール……」
 咄嗟の事に、レイリエは言葉が出なかった。
 何を言って良いのか解らなくなってしまったのだ。
 だって今の自分の格好は部屋着だ。
 予定では艶やかに着飾り化粧を施し、そして香水の香りを身にまとって、そしてブランシールと対峙するはずだった。
 勿論二人っきりで。
 叩かれた衝撃も忘れた巫女が、ブランシールを見詰めている。
「カリカ、神殿の奥の間に。大祭司様がお呼びだ。急いで」
 カリカという名の巫女は名前を呼ばれた途端、身体に電流が走ったように姿勢を正した。
「わ、わたくしが?」
「僕はただの使いだからよく解らないが、お前の力が必要なようだよ。お客人のお話し相手は僕が務める。急いで」
「はい!!」
 返事をし、腰を屈めてお辞儀をすると、カリカは白い巫女装束に風を孕ませ、開いたままの扉をくぐり、駆け足で大理石の床に足音を刻んだ。
 その様子を見届けると、ブランシールは扉を閉めた。
 ぎぃ……だん。
 その音が響いた瞬間、条件反射的にレイリエは笑っていた。
 戦争を、とめるには?

 内乱なら、どうかしら?

 エリファスは、辺境の土地だ。
 内乱なら、エリファスは守られるのではなかろうか? 否、きっと守られる!!
 メルローアの他の国土がどうなろうとレイリエには知った事ではなかった。
 大事なのは兄と暮らしたエリファスだけ。
 大事なのはそれだけ、だ。
 それなら?

 争わせればいい。

 誰と誰を?

「ブランシール……逢いたかった」
 レイリエはそっとブランシールの髪に触れた。さらさらと右の手からこぼれ落ちる銀糸の感触を楽しむ。
 ブランシールは動けない。
 青い瞳は見開かれたまま。
 だが、彼は氷の彫像のように凍り付いてしまっている。大祭司が倒れたという、レイリエには隠し通さねばならぬ出来事の為では決してなく。

 
 大丈夫。
 最悪、あの女だけでも。
 復讐だけでも、果たせる。

 レイリエの手が髪の毛を掻き分け首筋に触れる。右手に左手を重ねて見かけより逞しい首を抱く。
 レイリエは背伸びした。
 銀の睫毛をはたはたとそよがせ、そして伏せる。頬に扇の陰が落ちる。
 桃色の舌で唇を舐め、濡れたそれをすぼめて口づけを誘う。
 ブランシールはがたがたと震えだした。
 一見奇異な状況。だけれども、レイリエは見慣れている。
 レイリエに溺れた男達は、皆、禁断症状のようなものに取り付かれるのだ。
 とりこにならなかったのは、兄、アシュレだけだった。
 戦く唇がレイリエの柔らかい唇に押し当てられた。
 レイリエは首を抱く腕に力を込める。
 そして、ブランシールの唇を舌で割り、押し入る。 歯茎をなぞり、噛み締められた歯をこじ開け、甘い舌を味わう。
 一方的だった口づけに、ついにブランシールが応えた。
 絡ませた舌を吸い、貪りながらレイリエの細い肩を抱く。レイリエを壊してしまいそうな位に、荒々しく。
 頭の芯がとろけそうだと思う心と、自分に夢中になってしまった男を冷静に見る心と、二つの心を抱えたまま、レイリエは身を引いた。唇と唇の間を糸が引く。
「……ねぇ、ブランシール。今、何が起こっているかなんて訊く気はないけれども……」
 吐息と共に、レイリエは囁く。
 他国の王太子妃であるレイリエにメルローアの大事が訊ける筈が無いし、レイリエはそれにはさして興味が無い。
 興味があるのはただ一つだ。
「……隣の寝室で私達が睦みあうだけの時間はあるかしら?」
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