エスメラルダ


 レーシアーナはぼんやりと瞳を開けた。
 その青い瞳に飛び込んできたのは自分の瞳よりも更に青い、美しい宝石のような青だった。
「……ブランシール様……」
 レーシアーナは淡く微笑む。
「余り喋るな。酷い熱だ」
 そう言うとブランシールはレーシアーナの額に乗せてあった手巾をとり、サイドテーブルの上にある手桶の水にそれを浸してから、絞って、再びレーシアーナの額に乗せた。
 お優しいブランシール様……。
 レーシアーナは泣きたくなった。
 さっきの夢には何の根拠もない。
 ブランシール様はこんなにもお優しく『あんな事』はなさるはずがない。
 ブランシールはそんな男ではないはずだ。
 だが、レーシアーナは何故か解っていた。

 あの夢は真実なのだと。

 マーデュリシィが拒絶したという予言を自分が見たとまではレーシアーナは知らない。
 だが、あの悪夢は真実だ。
 これから起こる悪夢は、ブランシールを殺すか、さもなくば……さもなくばレーシアーナが動かないと現実へと変わるだろう。
 それはなんという恐ろしい事か。
 ただの夢であればいい。
 産褥熱で妄想を現実と信じ込んでしまったというだけなら救われる。
 だけれどもそうでない事をレーシアーナは魂の奥深くで知っている。
「レーシアーナ、何故、泣いている? 苦しいのか?」
 ブランシールはそう言うと妻の頬に手を沿わせた。
 真っ赤な、林檎のような頬。
 愛しいとブランシールは思う。
 自分はこんなにもレーシアーナを愛していたのだと、思い知り、胸が抉られるような痛みを覚える。
 それなのに自分はレイリエを抱いたのだ。
 愛していない女の言葉に、夢遊病に掛かったかのように従ってしまったのだ。
 死んでしまいたい、とブランシールは思った。
「大丈夫、です。ブランシール様……。お一人ですか?」
 レーシアーナの言葉にブランシールは一瞬首を傾げ、すぐに頷いた。
「ああ、妻の看病をするのは夫の役目だろう? すまなかった、レーシアーナ。僕の子供を産んでくれた大事なお前だというのに看病を人任せにしてしまって……」
 レーシアーナは鼻腔がつんと痛くなるのを感じた。
 今度は喜びの涙だ。
「ブランシール様、お気になさらずに、どうか……ブランシール様には御役目があるのですもの。今は……大丈夫なのですか?」
「大丈夫だ。というより、仕事をしていたら陛下に謝られてしまったよ。自分の婚儀の準備の為にすまないとね。そしてお前の許に行けと仰られた」
「陛下は、優しいお方ですね」
 そういうレーシアーナの額に張り付いていた一筋の金の髪を、ブランシールはそっとかきあげる。
「ルジュアインは?」
 はっとしたようにそう言うとレーシアーナは飛び起きようとした。が、すぐに肩をブランシールに押さえ込まれ、寝台に沈められてしまう。
「あの子は母上が預かって下さっている。たまには夫婦二人で過ごすようにとの仰せだ」
 レーシアーナの身体からすっと力が抜けた。
 ブランシールは肩を押さえつけていた手を離し、レーシアーナの髪をもう一度かき上げると、靴を蹴り飛ばすように脱いで、レーシアーナの隣に滑り込んだ。
 そして仰向けに眠っているレーシアーナを抱き締める。
「もしお前がこうしていてもいいというのなら、今夜はお前を抱き締めて眠りたい」
「……はい」
 レーシアーナは答え、額から手巾をとった。そして身体を反転させるとブランシールの胸に顔を埋める。
 石鹸の匂いは、夜故の湯浴みの所為なのだろうか? それとも……夢で見たようにレイリエと寝た、その痕跡を隠す為の物なの?
 ああ、全てが妄想であったら良いのに。
 今抱き締めてくれている腕のぬくもりだけで夫を信じ切れない自分を激しく嫌悪しながらも、レーシアーナはブランシールにしがみついて離れなかった。
 今、世界が終ればいい。
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