エスメラルダ
 会場を抜け出して、回廊から庭に出る。
 その庭の奥に、温室があった。
 一年中、メルローアの王族の女性が髪に薔薇を飾れるようにと様々な株を育てているその温室は幾つもの部屋がある。
 四季折々の気候に合わせて花を咲かせるため、部屋ごとによって設定されている温度が違うのだ。
 そこに、氷姫・レイリエはいた。
 髪に飾っているのは、手折ったばかりの蒼氷薔薇と呼ばれる薔薇である。白い薔薇なのだが、その余りの白さゆえに青白く見えるその薔薇はレイリエのお気に入りだった。
 きいっと扉を開ける音に、レイリエはゆっくりと振り向いた。
 顔には優しいといっても構わない笑み。
「淑女を待たせすぎだわ、ブランシール」
 レイリエは彼の姿を見るや赤い唇を舐めた。
「……二人同時に消えたならおかしいでしょう。少し時間を置かないと」
 ブランシールが笑みを浮かべる。
 暗い笑みだった。その青い瞳は底なしの悲しみを浮かべていた。
 だが、レイリエはそれに気付かない。
 彼女は自分に対しての好意以外を感じ取る力に欠けていた。
 表面しか見ない彼女。
 ただブランシールの唇の端が持ち上げられている事が彼女には重要で。そして妻を亡くしたばかりだというのにレイリエが帰国する前に逢いたいと強請られた事の方が重要で。
 それはとてつもなく自惚れが過ぎるレイリエを満足させるのに充分だったのである。
「そうね、確かにそうだわ」
 レイリエはそっと髪に挿した薔薇に触れた。
 喪服に男は興奮すると言う。
 勿論、レイリエは自分の企みがばれぬよう喪服は持ってこなかった。だが、黒いドレスは用意してあった。
 胸元が大きくくられたドレスは葬儀の最中、春物の薄いケープで露出度を押えてあったが、そのケープは今は身に付けていない。
 ドレスの黒と対比する白い肌が艶かしかった。
 しかし、ブランシールはそれを見ても、もうかつてのような劣情に襲われることはなかった。そして嫌悪感すらもなかった。
 ただ、目的を遂行するだけだ。
 他の感情はいらない。
「レーシアーナの事はお気の毒だったわね」
 無神経に、レイリエはブランシールが本当に愛した女性の名前を口にする。
 ブランシールは答えない。それを見て、レイリエは肩をすくめた。
「でも、もう一つの約束は守るわ。フランヴェルジュは貴方のものよ」
 ブランシールは微かに哂った。
 兄上。
 その想いがブランシールから全てを奪った。
 今でも兄を愛している。
 だけれども、それより深い愛を知った。
 頑是無い子供が手に入らない玩具を求めるように執着していたのと、ブランシールの兄への想いは大差ない事に、……気付くのが余りに遅すぎた。
「? ブランシール?」
 怪訝そうに声をかけるレイリエを、ブランシールはそっと抱き寄せた。
「ブラ……!!」
「無理ですよ。叔母上」
 ブランシールの声があまりに低かったので、レイリエははっと身を強張らせる。
 何だろう? 何かが違う。何かがおかしい。
 何かが思ったように動いていない。
「どういう意味? フランヴェルジュは……フランヴェルジュはもう妻を選べないわ」
「当たり前です。選んだ後なのですから。婚姻の相手はただ一人きりだと貴女は仰った」
「そうよ」
 ぐっと。
 レイリエを抱く腕にブランシールは力を込める。
「苦しいわ。離して! 乱暴なのは嫌いなのよ!」
 レイリエが抗議の声を上げた。
 一体何が? 一体……!!
 レイリエの心がざわめく。
 ブランシールが霊園に向う前、夜明けに、レイリエのところに届けられた几帳面な走り書き。
『貴女を想うと胸が張り裂けそうだ。酒宴の席を抜け出し、薔薇の温室で待っていて欲しい』
 情熱的な文句にレイリエは悪い気がしなかった。普段のブランシールなら韻を踏んだちゃんとした詩を届けるだろうとレイリエは知っている。
 逢いたい気持ちが抑えきれなかったのだと彼女は単純に解釈した。
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