エスメラルダ
 レイリエは最後までいう事が出来なかった。

「ふふふ、ふ、あはは、あはははははは!!」
 ハイダーシュは笑う。
 愛していたのに。
 愛していたのに。
 与えうる全てを与えようとしていたのに。
 温室の鉢植えが幾つも割れていた。
 そして、薔薇が土と共に愛する妻の死体に彩りを加えていた。
 一閃で、妻と間男を切り伏せた。
 間男が誰だか、ハイダーシュには興味がなかった。
 レイリエが自分を裏切っていたという事しか興味がなかった。
 血塗れのハイダーシュは笑い続ける。
 その血が、どんどん冷えていき、身体に張り付く。
 血を吸った服は重い。
 間男はレイリエの下になっていた。
 レイリエが顔だけをこちらに向けて、その目を見開いている。
 その顔が、憎悪の顔にハイダーシュには見えた。
 愛していたのに。
 横腹から、内臓がはみ出していた。
 ピンク色のそれがひくひくと蠢いているのを見て、ハイダーシュはそれを引きずり出して頬擦りする。
 この臓物の名前はなんと言うのだろう?
 それだけが、レイリエの中で忠実なものであったような気がして、ハイダーシュはそれを握り締めたまま、よろよろと温室から出た。
 彷徨い歩く。
 自分を呼び出した間男からの手紙には書名がなかった。ただの悪戯だと思っていた。
 レイリエが自分以外を愛するなどという事が起こりうるはずがないと信じていた。
 だから、火にくべて燃やした。

 まさか本当に裏切られているなんて思わなかった。

「あはははは!!」
 涙が零れてくる。
 ああ、臓物の痙攣が弱くなってくる。
 永遠にレイリエが自分から去る。
「きゃああああああああああ!!」
 甲高い悲鳴が聞こえた。
 何があったというのだろう?
 だが、もう自分には関係のない事だ。
 レイリエのいない世界など、ハイダーシュにとっては何の意味もない。
 あちこちで悲鳴が聞こえる。
 人がまばらに休む庭園の中央まで歩いてきた事に、ハイダーシュは気付かなかった。
 彼の精神はもう死んでいたのだ。
 レイリエを殺した時に、彼の精神も黄泉路を辿ったのだ。
 誰かが、ハイダーシュの両脇を押えた。
 ぽとり、と、もう冷えて固まりつつある臓物が落ちた。
「ご乱心ー!! ファトナムール王太子殿下ご乱心―!!」
 衛兵が叫ぶ。
 兵達が、騎士達が、国葬の出席者達が集る。
 フランヴェルジュも、庭園に飛び出してきた。エスメラルダも、彼の後に続く。
 フランヴェルジュは声を失った。
 ハイダーシュは誰を斬った?
 ハイダーシュの手から、血に塗れた剣が音を立てて落ち、野次馬の貴婦人達が悲鳴と共に次々に気を失った。
「血を辿る! 余に続け!!」
 ハイダーシュの歩いてきた道を、彼が浴びた血の滴りを頼りに辿ったフランヴェルジュは、そして、言葉を失う。
 ガラスの壁面が大破した温室に満ちる血。
 そしてそこにある銀の髪。
「レイリエ叔母上……?」
 フランヴェルジュは恐る恐る呼んだ。
 誰かが彼女の下敷きになっている。
 誰? 誰だ?
 フランヴェルジュの全身から血の引く音がした。
「ブラン……シー、ル?」
 血に塗れた手が、レイリエの体の下から投げ出されている。
 その小指にはめられた指輪に、心当たりがあった。
 レーシアーナの指輪だ。
「ブランシール!! ブランシールゥゥー!!」
 フランヴェルジュは吼えた。
 破られた硝子の壁から、フランヴェルジュは身体を滑り込ませるとレイリエの身体を乱暴に引き離し、転がした。
 がしゃん! という音と共に硝子が割れ、いまやただの物体となったレイリエの身体が温室の外に転がり出る。
「ブランシールゥゥー!! うあああああ!!」
 叫び声が天をつく。
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