エスメラルダ
「バジリル様!?」
 若い神官が驚いたような声を立てた。
 その名前から、エスメラルダも残りの二人も老神官の真実の身分を知る。
 神官長、バジリル・スナルプ。
「これ、大声を出すでない。客人に失礼だと思わぬか? 汝らは命じられた事をすれば良い。さぁ、ブランシール様とレーシアーナ様の事は任せる。エスメラルダ様、参りましょう。ある御方が、貴女様がいらして下さるのを今か今かと待っていたのですよ」
 ある御方。
 バジリルが王族以外に敬語を使うとしたら……エスメラルダは気が動転していて自分が敬語を使われている事を綺麗さっぱり忘れていた……この者しかいないという名前が頭に浮かんだ。
 大司祭、マーデュリシィ。
 未だ二十五歳の若い女性が神殿の最高権力者であった。
 その魔力にはすさまじいものがあるという。
 かつん、こつんと、大理石の廊下の上に踵の高い靴が足音を響かせる。その音のあまりの大きさに、エスメラルダは何だか申し訳ない気分になるのだった。
 帳のようにおりた静寂を打ち破る、無粋な靴の音。
 バジリルはどうみても七、八十はありそうな外見ながら俊敏である。
 実は若いのではないだろうかとエスメラルダは想像した。
 カスラの一族にもいたはずだ。骨格さえ組み替えての変装を得意とする者が。
 バジリルの動きは不自然な程に滑らかなのである。他の者の目は騙せてもカスラの忠誠を受けたエスメラルダはこの老人が只者ではないと看破した。
 神官長なのであるから当然魔力は高いのであろうが、それだけではないだろう。
 みるからに好好爺と言った感じなのにね。
 だが、見た目に騙されてはいけない。エスメラルダはそう教わってきた。
 何があるか解ったものではないからな。
 そう言ってランカスターはエスメラルダを教育したのだ。
「どうかしましたかの? エスメラルダ様」
 考え、自然に歩調が落ちていたエスメラルダはバジリルの言葉に現実世界に返った。
 バジリルの問いに、エスメラルダは困ったように笑う。どう答えて良いのか解らないのだ。貴方は正体を偽っているでしょう、などというのは憚られる。
「月には様々な顔がありますわね。新月、望月、弦の月……そういう人間もいるのかしらとふと考えたのです。ただの世迷言です。お忘れ下さい」
「貴女は聡い。そして愚かだ」
 先程までのしわがれた声ではなく、バジリルは低音の声を響かせた。白髪頭で琥珀色した瞳の老人の姿のまま。
「ですがそれ故に運命の輪は貴女様を巻き込みながら動こうとするのでしょうな。貴女様は傍観者にはなれない。激しい運命の本流に飲まれて、その渦中において、貴女様のその頬に笑みは刻まれたままでしょうか」
 酔ってしまいそうなバリトンの声。
 その瞳には真摯な光と子供のような好奇心という二つの色が浮かんでいた。
「わたくしは笑ってみせますわ。何があっても。それがある方との御約束ですの」
 かつん、こつん。
 足を止める事無く話し合う二人。
 その声はどちらも音楽的に美しいのに、まるでレイピアの先のように鋭かった。
「アシュレ・ルーン・ランカスター様ですな」
 バジリルの言葉に、エスメラルダは頬に刻んだえくぼを益々深くしながら答える。
「はい」
 ただ一言。
 するとバジリルは皺でくしゃくしゃの顔を更にくしゃっとさせ笑った。
「正直は美徳。だが時には愚かさの露呈」
 バジリルは言う。だがその瞳には悪戯気な光が宿っていた。
 エスメラルダは少し考えて答える。
「愚直でよいと躾けられました。裏切られても裏切る事なかれとも。そして心のままに素直に生きよとも。わたくしはわたくしが愚かである事を知っています」
 ふむふむとバジリルは頷く。エスメラルダは続けた。
「愚かである事が恥ではなく、愚かである事を知らぬ事が恥なのだと、遠き方は仰いました。わたくしにはこの言葉がまだ本当には解っておりません。愚かである事には変わりないではないかと。ですが、自身の愚かさから目を背ける真似だけはしないでおこうと思うのです」
「どうやらわたくしめは貴女様に心を奪われようとしていたようですな。さぁ、着きました。この部屋の主たる御方が貴女様にお逢いしたいと願っているのです。では御前失礼」
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