恋の花咲く事もある。
 ──その頃、エカミナは昨日とさして変わらず、髪一本出ていない三角巾とエプロンとワンピースという出で立ちで、果物屋の布の幌の下で商売の合間にお喋りしていた。
 お喋り中の彼女を見たラゼリードは、いつ話し掛けていいものか悩み、暫くの間立ち尽くす。
 やがて、エカミナがラゼリードに気付いた。尼僧の様な三角巾を揺らしながら、ラゼリードに向かって大きく手を振る。
 ──エカミナと話していた客がほっとした顔を見せた事は、ラゼリードの胸に深くしまい込まれた──
「おにいさん、また来てくれたんだね! 今日は何にする?」
「いえ……今日は、『遊び心の君』の使いです」
 エカミナが青い目を瞬かせた。
 ああ、彼女は青い目をしていたのか。
 肌も浅黒く日焼けしている。その灼けた肌でも判別のつく、赤い唇。確かにしっとりとした美しい顔立ちだ。
 ラゼリードは自分の異形隠したさに、人の顔一つ見ていなかった事を、少し恥じた。
「また何か珍しい果物をお求めなのかしらねぇ? 分かった。後で届けるよ。折角だから上がってって。……アンター! ちょっと店番しててくれない?」
 後半の言葉は、店の奥に向かって叫ばれた。
 あいよ、というだみ声と共に地響きがしそうな足音を立てて、岩の様な巨躯と岩石の様な顔面を持つ大男が奥から現れる。
 まばらな頭髪は薄い鉄色をしていた。……岩石の精霊なのだろうか。
 大男がラゼリードをジロッと見下ろす。いや、睨み付ける。
 ラゼリードは頬がひくっと引き攣るのを感じた。
 エカミナの亭主がラゼリードの様な女顔や、ハルモニアの様な少年顔をしていたのは何百年前の話だ、と言いたくなるのを、彼はそれはもう必死で堪えた。
 奥へと向かうエカミナがラゼリードを手招く。
「アンタ、浮気はしないから安心しとくれね。このおにいさんは『遊び心の君』のお客様なんだよ」
 エカミナは亭主に向かって甘えた声を出した。亭主は黙って頷くと、これまた黙って店番に付いた。
 あの無口さで果物が売れるのだろうか。少し心配になる。
 エカミナに手招かれるまま店の奥に入り、そのまた奥の住居に招かれたラゼリードは、そこでもう一度驚愕する事になる。
 エカミナが大きな三角巾を解くと、青い絵の具をぶちまけた様に真っ青な、長く豪奢な巻き髪がこぼれたのだ。しかもその髪は光の当たり具合によって薄い水面の青にも、深く暗い水底の青にも見える。
「びっくりした? 私は水の精霊だよ。ここまで髪が青いのは珍しいんだけど」
 老婆か尼僧の様に頭に巻いていた布を取り払ってしまうと、彼女は匂い立つ様な色気を放つ、派手な美女と化した。ワンピースとエプロンという地味な格好を差し引いても、元ある美貌が人目を引くのだ。
 ラゼリードは惚けた様にエカミナを眺め、ほんの少し頬を赤く染めた。なんとはなしに片眼鏡のズレを直すフリをして顔を隠す。が、エカミナにはお見通しだった。
「何赤くなってんの。言っとくけど私は亭主にぞっこんだからさ。エルダナ様にも言ったけど、私が欲しけりゃウチの亭主と決闘していってね? ああ、用心棒に頼むのはナシで生身でね?」
「ち、違います。それに、そんな勇気ありませんよ」
 刃物を抜いたとしても、果たして彼の皮膚に有効な傷を付けられるのかどうか疑問に思うような人面岩の亭主だ。間違っても決闘したくはない。しかし何故そこでエルダナの名前が挙がるのか。彼の素行が気になる。
 よくよく考えたら、昨夜見たロケットの中の母子二組の肖像画も、母親が違った気がする。
「それでは、粗末な住処ではありますが、どうぞお掛け下さい。紫の行方をお話ししても宜しいですか? 『闇夜の菫』様」
 エカミナに勧められるままに、ラゼリードは質素ながらも綺麗に磨かれた大きなテーブルに着く。
「それはまた……懐かしい二つ名を出してくる」
 『闇夜の菫』とはラゼリードがまだ人間だった頃、両目共に菫色、黒い髪であった為に社交界で付けられたあだ名だ。
 今日は片目の色を隠しているというのに、素性がすっかりバレている。
 ラゼリードは苦く笑った。
 昨日、フードの中身を覗かれたあの一瞬で見破られたのか。この色合いでは無理もないと思う。
「では『蝶々』様とお呼びした方が?」
 『蝶々』はラゼリードの身体にある紋様の形でもあり、ラゼリード専用の紋章でもある。
 ラゼリードは肩を竦めてみせた。
「どちらでも。右の瞳はこの通りまだ菫色だし、どちらの性別でも蝶々は居る。でも、どちらも呼ばうには不自然だ。あえて言うなら、アーシャと呼んでくれ」

 想い出が。ラゼリードの目の前を、聞こえない筈の音を立てて横切った。

────
『名前はそれで決まりですね』
『家名はどうしよう』
『じゃあ僕の家名をあげる。アーシャと名乗ればいい。この名前は、僕とシャロからの贈り物だよ』
────

「アーシャ様。エルダナ様から例の資料は受け取られましたか?」
 伺う様なエカミナの言葉に、ラゼリードはハッと我に返って鞄を漁った。紙の束を取り出す。
「此処に辿り着く前にざっと目は通した」
 ラゼリードは一息入れて、口を開いた。
「……この春先の深夜、不審な四角い小箱の様な積み荷を大量に積んだ船が、ルクラァンの海岸に……港ではなく海岸に着いた事。積み荷を受け取った者達が居た事。そしてその現場をたまたま見た者が居る事。……何故その積み荷がカティだと?」
「荷下ろしの際に、何人もの男が積み荷を運びながら『手が冷たい』と言っていたそうです。中には松明の熱で中身の氷が溶け、包みが緩んで解けたものも。……中身は氷漬けにされた紫色の花でしたそうです」
 その言葉を聞いた途端、ラゼリードの心中に激しい怒りの嵐が渦巻いた。
 ──許せない。あってはならない。あの花は──
 彼は知らずの内に眉間に皺を寄せる。
「やたら詳しいな。資料にその人物の詳細は書かれていないが、現場を見たのは、エカミナ、あなたじゃないのか?」
「……違います」
 エカミナが微かに視線を落とした。
「では誰だ? 何故直接本人が報告しなかった?」
「……それは、ご本人に直接お訊き下さい。彼のお方は今も独自でカティの捜索を続けてらっしゃいますので」
 彼のお方……という事は一人か。エカミナが敬語を使うという事は、少なからず彼女より身分が上という事だ。貴族だろうか?
 ラゼリードは一刻も早くその人物に会いたいと思った。気が逸る。
「……現在怪しいとされているのは、ルクラァンのスラム街に潜む5つの犯罪組織か。……5つって多すぎないか」
 ラゼリードが紙の束をぺらりと捲る。
 そこには5つの名前が書かれていた。ラゼリードが読み上げる。
「怪しきは……
『アグニーニ』。
『偽鏡』。
『墜』。
『真実の目』。
『ヴァンティオン』。
追記、可能性は非常に薄いが『陽気な悪党団』……なんだこの最後のは」
 もう少しましな名前は無かったのだろうか。悪者とは思えない。
「ご安心下さい。『陽気な悪党団』と『真実の目』は候補から外して下さって結構です」
 エカミナが言葉を挟んだ。
「何故?」
「『陽気な悪党団』は単なる酔うと暴れる酒癖の悪い男共の集団です。酒さえ抜ければ気の良い連中なのです。そして『真実の目』は、半年前に頭目のガノッツァ他数名が捕らえられ、団員の自白により拠点が割れました。既に討伐隊に狩り出され『真実の目』は、ほぼ壊滅状態なのですわ。とはいえ何名かが追尾の手を逃れている様ですが」
「じゃあ残るは4ヶ所か」
「いいえ、3ヶ所です」
 ラゼリードが紙面から顔を上げると、エカミナが気まずそうな表情で彼を見ていた。
「『アグニーニ』は今頃きっと、壊滅しています。拠点もろとも燃えてるんじゃないですかね」
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