魔王に甘いくちづけを【完】
私には逃げる術もないし、記憶もないから行く場所もない。

ここを離れてもどうしていいか分からない。


「怖くありません・・・それに、逃げられません」



そう答えると、漆黒の瞳がふわっと緩まった。

長い指先が頬を撫で始め、さっきまでの切なげだった瞳に、妖艶な輝きがみるみるうちに宿っていく。

いつものような、静かな自信に満ちた表情に変わっていった。



「そうか、良かったな。もし、怖いと、私から逃げると言ったのであれば・・・危ないところだったぞ?」


「危ないって・・・それってどういうことですか?」


頬や髪を撫でながら、ラヴルは恐ろしいことを言い始めた。



「ユリアのことは私の心一つということだ。ユリアがこうして息をしていられるのも、このように夜会に出かけられるのも、ユリアが私の傍で生きるのを、私が許しているためだ。ユリアは私のモノだということを忘れるな」


声や表情は静かだが、その裏には冷たいものが潜んでいる。

ラヴルの漆黒の瞳に、紅い光が一瞬宿ったように見えた。

普段のもの静かで、時に意地悪な顔の他にもう一つ、冷酷な顔が僅かに覗いた。今まで感じたことのない恐怖。

私の命はこの方の手の中で、自由に転がされている。


“逃げたら殺す”


遠まわしにはっきりとそう言われ、この時初めてラヴルを怖いと思った。



「だから逃げようと思うな。さっきも言ったが、これから向かう夜会でも、私から絶対離れるな」

「はい・・・」


「―――脅かし過ぎたか。心配するな、ユリア、もう泣くな・・・。可愛い顔が台無しだ・・・」


震えながらも返事するユリアの頬を撫でたあと、ラヴルは涙に濡れた瞳に何度も口づけた。








ユリアはぼんやりと窓の外を眺めていた。

馬車は街中を走っていて、夜なのに、沢山の人が道を行き来している。


「ユリア、会場に着くまでに、機嫌を直せ」


むっすり黙り込んでいるのが気になるのか、ラヴルはさっきから手を握ったり、結いあげられた髪を整えるように、長い指先で撫で上げたりしている。



――機嫌を直せと言われても・・・。


血を吸われたあとあんな風に脅されて、普通でいられる人っているのかしら?

こうして傍にいるのも怖いと思ってしまうのに。

そんなことを言うのなら、あんな風に脅さなくてもいいのに。
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