身を焦がすような思いをあなたに

「朱理。あんたに会いたそうな人間が、森をうろうろしているよ」

昼食の後、老婆がずずっとお茶を飲みながら、そう言ったから、朱理はきょとんとしてしまう。

「…なんでわかるの?」

「なんでかはわからないけど、わかるのさ。美少女に見えるけど、男だ。16歳。髪は金の巻き毛。土の国の人間らしい」

「黄生だ」

年齢が想像以上に若くて驚いたけれど、それ以外は全て、彼の特徴が当てはまる。

「どうする?会いたい人間かい?追い返すかい?迷わせるかい?」

あれから、どれくらいの日が経ったのだろう。朱理は、ここへきてから時間を数えることをやめた。時間だけでなく、いろんなことを、忘れて行こうとしているところだ。

ともかく、ああやって朱理を攫い損なった後も、どうやら元気にしているらしいとわかった。

「できるなら、少しの間、迷わせといて欲しい。たくさんの人に危害を加えようと企んでいた悪い人だから」

朱理は、別に罰を与えようと思ったわけでもない。ただ、ここに辿りついて、何か企てられると老婆に迷惑がかかると思ったのだ。

そして、黄生に会うのに少し勇気が必要だった。

水の国に、火を放とうとした人だから。清らかで、澄んでいて、キラキラした綺麗な国を。

それだけじゃない。朱理に対しても、やや暴力的だった印象がある。強引に口づけられたことを思い出すと、朱理はずきりと胸が痛んだ。

でも、その後に、青英の唇を貪るようにして、自分からキスをしたことを思い出すと、今度はひとりで真っ赤に頬を染めることになった。

無理だ、まだこの調子では、黄生とも顔を合わせられそうにない。


「なんだい、あんた。真っ赤な顔で泣いて。何を思い出してるんだか」

気がついて、老婆が困ったような顔で、そう言った。そうか、私は泣いているのか、と朱理は思った。


青英を思い出すと、なぜだか涙が出る。


「嫌なら、もう追い返すよ」

老婆が朱理の髪を撫でてくれるから、ときどきそうやって青英が自分に触れたことまで思い出し、混乱しながらも、朱理はなんとか言葉を作る。

「ううん。話してみたいことがあるから、大丈夫。もう呼んでくれる?」

「もちろん」

老婆がそう答えたときには、ドアをコンコンと叩く音が部屋に響いたのだった。


「生きてた!」


ドアが開くなり、黄生が朱理を見つけてそう叫んだから、朱理もはっとした。

「良かった、朱理、生きてたんだな」

黄生が、朱理を抱き締めた。その力が強くて朱理は息が詰まったから、黄生の脛をつま先で蹴った。

「いてっ!朱理、君は!」

「何よ、苦しいんだってば。黄生はちょっと乱暴だよ」

「乱暴じゃないし。嬉しいから加減ができなかったんだよ」

むすっとふくれっ面をしながら、黄生はそう言った。


「もう悪いこと企んでない?」

朱理が、そう切り出すと、黄生はますますムッとした顔をしてこう答えた。
「朱理次第だよ」

「何それ。なんで私が関係あるの」

「朱理が構ってくれるなら、やめてもいい」

「十分構ってあげたはずだけど」

「冷たいな、朱里。どこが十分なんだよ」

はあ、とため息をついて、黄生がようやく、部屋の中をぐるりと見渡した。

「ここどこ?」

「おばあさんの家」

「おばあさんって、誰だよ。名前は?」

「よく知らない。倒れてたところを助けてもらった」

「どこにいる?」

「…あれ?」

いつの間にか、部屋の中に老婆の姿はなかった。


ちゅっ。頬に柔らかいものが触れて、朱理は目で老婆を探すのをやめた。

「なに?」

朱理が、黄生を見上げると、彼は「なにって、何?」と言いながら、今度は朱理の唇にキスをした。

「なんで私にキスするの?」

初めて会った日もされてびっくりしたけど、こんなふうに気軽にすることじゃなかったはずだと思い、朱理は困惑している。


「朱理が好きだから」


その言葉に、朱理は、はっとした。頭の中で予想していた答えじゃなかったからだ。

「キスしたいから、でしょう?」

そう確認すると、黄生はちょっと笑って答える。

「誰とでもはしたくないだろ。好きなやつとしたい」

「黄生は、まだ会ったばかりなのに私のことが好きなの?」

朱理は、目を丸くして、黄生を見つめ返した。

「会ったばかりかどうかなんて、関係ない。好きになろうとしなくても、突然好きになるもんだろ。恋に落ちるって言うくらいだし」

「恋」

朱理は、その言葉を聞いて、考え込んでしまった。



「なんだい、お前は。とっととお帰り。お姉さんがお待ちだよ」

そのとき、外から帰って来た老婆が、我が物顔で、リビングに居座っている黄生にそう言った。

「待ってないし。僕もここに住む」

「厚かましい子だね。こき使うよ!」

呆れて老婆がそう言うと、黄生はにやりと笑った。

「契約成立」



老婆も、美少女のような顔立ちの黄生と言えども、力仕事を難なくこなしていくのを見るうちに、「早く帰れ」と言うのをやめたようだ。

水汲み。薪割り。家の修繕。火起こし。朱理と老婆の二人では、苦労していたことが、難なく終わっていく。

日が落ちる前に、一日にやるべきことが済んでしまって、三人は早めの夕食をとった。


「お前、本当に帰らなくてもいいんだね」

ちろりと、老婆が黄生を見て、念を押した。

「ちゃんと働いただろ?」

「朱理を襲ったら、すぐに森に捨てるから、覚悟しておきな」

その言葉に、せせら笑っていた黄生が、笑みを消した。

「……」

「なんだい、さっきまでの威勢の良さはどこに行ったんだい?」

沈黙して嫌な顔を見せる黄生に、老婆はそう言ってからからと笑ったけれど、朱理は「襲うって、拉致するってことかな」と独り言を言うだけだった。



「もう私眠たいんだけど」

不機嫌なのを隠そうともせず、朱理がそう言うけれど、黄生は無理に朱理の部屋に入った。

「じゃあ、眠るまででいいから。朱理と一緒にいたい」

「…もう寝る」

「冷たいなぁ、朱理は。どうして水の国を潰そうと思ったのか、教えてあげようかと思ったのに」
黄生がこれ見よがしにため息をついて、部屋を出ようとしたから、朱理は慌ててその腕を掴んだ。

「じゃあ、もうちょっとだけ、起きてる」

黄生は、朱理の素直な反応に、くすくす笑いながら、彼女の方に向き直った。

「美砂」

朱理が小さな声でそう囁いたから、黄生も胸がちくりと痛んだ。

「そんなに似てる?」

黄生の顔が、目に見えて寂しそうになったけど、朱理はそれに対しても、どこか嬉しい気持ちになった。あれこれ良からぬことを企んでいた黄生が、自分と同じ痛みを持つ人間のひとりだと、よくわかったから。

「笑った時だけは、そっくりだと思う」

そう言って、朱理が切なそうに目を細めたから、黄生も、姉を失った傷がほんの少しだけ癒えたような気がする。立場は違えど、同じ人を悼む気持ちを持っているのだから。


「僕が水の国を嫌う理由は、ひとつは母親に、もうひとつは美砂に原因がある」


朱理は、小さな椅子に腰かけた。眠らずに、黄生の話を聞こうと言う気持ちになったからだ。
それを見て、黄生も座るところを探すけれど、小さな部屋には椅子が1脚と、ベッドしかない。少し考えたけれど、結局ベッドに腰掛けた。

「僕の母親は、水の国の出身なんだ。城で給仕の仕事をしてた。王族でもなく、貴族でもなく、ただの平民だ」

朱理は、想像してみる。

あの城の、あのダイニングで、黄生によく似た女性が、温かい食事を運んでくれるところを。

「砂の国の王が、水の国の城を訪れたときに、母を見初めた」

美砂とは母親が違うと、黄生が言っていた。つまり、砂の国の王が、ふたりの父親なのだ。

さらさらと、あまり抑揚もつけずに、黄生が語り始めるのを、朱理はただ黙って聞いていた。


「見初めた」なんて言えば、聞こえはいいが、現実的には、母はあまり幸せな生涯を送ったとは言えない。

まだ母は15歳だったのに、父は母に手を出したんだから。父に出会った時、母には結婚を約束した恋人がいたらしい。それなのに、隣国の王が側室に望むならと、母の両親は、水の国の王室が指示する通りに、喜んで娘を差し出した。

母の葛藤は、どれほどのものだっただろうかと思うよ。

土の国に嫁いでから、王との間に僕が産まれた。そのときには、王妃にも、すでに美砂と千砂という娘がいたけれど、息子はいない。そして、それきり、王の子どもは、王妃にも母にも、その他の女にも、できなかった。

土の国では、慣習上は男が後継ぎになることが多いが、性別に関する正式な決まりはない。結局のところ、王が王位継承者を指名する、という条文があるだけなんだ。

つまり、俺と美砂と千砂をめぐって、周りの人間が、あれこれ画策するようになったわけだ。

元々、母は、大人しく物静かな性格で、争いを好まない。王室に入ることだけでも、強いストレスだったところに、そんな問題が持ち上がったから、次第に心を病むようになった。

そんな中で、救いだったのは、美砂と千砂が、僕を本当の弟のようにかわいがってくれたことだ。彼女たちの母親だって、特別僕を冷遇するわけじゃなかった。

だから、とうとう母が自殺した時にも、僕は完全にひとりにはならなかった。なんとか、自分を保っていることができた。

もし、二人の姉が、傍にいなかったら、僕は今以上に道を踏み外した人間になっていただろうと思う。

父も悪い人間じゃなかったと思うけれど、博愛主義者らしくて、なかなか人に順位をつけられなかった。身分のない母を娶ったことからもわかると思うけど。

つまり、僕たちのうちの誰を王位継承者にするかと言うことを、なかなか明言しなかったんだ。

そして、結局、去年、そのまま心臓発作を起こして死んでしまった。

でも、それで全てが解決したんだ。

元々体が弱くて国を継げそうにない美砂は、水の国に嫁いだ後だったし、俺はまだ王位継承権を得る16歳を迎えていない。どう考えても、千砂が王位を継ぐしかなかった。

それは、どうでもいいんだ、僕にとっては。とにかくわいわいとうるさかった周囲が静かになってせいせいしただけだ。
でも、水の国で、美砂が、男の子を産んで死んだって聞いた時。

忘れていた怒りが蘇ってきた。

違うと頭では分かっているのに、美砂が母その人のように思えてきて。

昔、母を差し出した水の国が、再び憎くなって、今、美砂の命を縮めた水の国が、新たに憎くなって、我慢できなくなった。

僕はちょうど、身軽になったところだったし、動かせる人間もいるし、なんとかしてあの国に復讐してやろうと思っていたところに、朱理の話を聞いた。

使えると、思った。

自分の意思じゃなく水の国に行った人間なら、多少はくすぶる不満もあるはずだと思ったんだ。そこを、ゆっくり焚きつけてやればいい、って。

でも、実際に会った朱理は、とても俺に協力してくれそうにない女だった。

ふあ。

「…おい、大事な話の最中にアクビかよ」

黄生が、がっくりと肩を落としてそう言うけれど、朱理はそれにもひそかにほっとした。大事な話だってことはちゃんと理解していたけれど、黄生がその話の重みに引きずられていないようで。

「また眠くなっちゃったんだもん。いろいろ話してくれてありがとう」

朱理自身も、そうやって、黄生が心を開いてくれたことに、安堵をおぼえていた。だから、自分が持っていた警戒も、ある程度解けていた。

「お、おい!気軽に男がいるベッドで寝るな!」

朱理が、腰掛けている黄生を押しのけて、ベッドに横になるから、黄生は慌てたようにそう言う。

「なんで?スペースは空いてるじゃない」

「そういう問題じゃない!」

「何が問題なの?」

「僕、朱理のこと好きだって言っただろ」

「ん、ありがとう」

「だからだめなんだってば」

「はぁ?好きなのに、一緒に眠れないの?どうして?」

「…抱きたくなるだろ」

「もう抱いたでしょ」

「だ、抱いてないはずだ!」

「あれ?再会したとき、玄関で」

黄生は、盛大にため息をついた。

「本当に知らないのか。…誰も、教えてくれなかった?」

誰も、の前に、「義兄も」の言葉を頭の中で付け足しながら、黄生は慎重に尋ねた。

「うん?何を?」

「子どもができる方法」

「知ってるはずないでしょ。黄生は知ってるの?まだ赤ちゃんもいないのに?」

「……寝ていいぞ、朱理。おやすみ」

「?」

黄生がころりと主張を変えるのを不思議に思いながらも、朱理は「おやすみ」と答えて目を閉じた。



「…もう、黄生!」

朱理がそうやって、露骨に不機嫌な声で、目を開けたのは、ほんの数分後だ。
「私、眠いって言ってるのに。どうしてそんなにべたべた触るの?」

いつの間にやら、結局ベッドに入り込んで、黄生が朱理にくっついている。

「気が変わった。好きな女に触りたくない男なんて、いないだろ」

「そっか」

うとうとし始めたところを起こされたから、眠くてたまらず、いい加減に言葉を返して、朱理は再び目を閉じた。

「あ、適当な返事して、寝かかってるな、朱理。まあちょうどいいや。胸触っていい?」

が、聞き捨てならない言葉を、耳で受け止めたから、なんとか返事を返す。

「『下着の部分は、他人に触らせちゃいけない』って書いてあったから、駄目」

「そこも『そっか』って返事すればいいのにさ。何に書いてあるんだよ、そんな余計なこと」

「小さい女の子向けの本」

「痴漢対策を僕に応用するなよ…」

「痴漢って何?」

「説明するのが面倒だ。考えてることは僕も大差ないからもういい」

「じゃあ黄生が痴漢ってこと?」

「ばっ、バカ、それは誤解だ!」
「もう、黄生の方が面倒だよ。ね、もう眠ってもいい?」

目を閉じたままで、朱理が胸に擦り寄ってくるから、黄生は、かあっと頭に血が上った。


「僕、初めて義兄に同情する」

「ふぅん、青英に同情?」

いよいよ、深い眠りの中に、転がり落ちそうだった朱理なのに、ぱっと意識が覚めた。


しょうえい。


口に出さないように、できれば、頭の中にも思い描かないように、気をつけていた人。

眠さのあまり、とうとう言葉にしてしまった。

その響きを耳で捕らえると、朱理は身動きが取れなくなりそうなくらい、何かが胸から溢れかえってくる気がした。


「…黄生、駄目だって言ったよ」

朱理のブラウスの下から、そっと差し入れた手を、黄生は渋々引き出した。もちろん、すべすべした朱理のお腹の肌触りを味わいながら。

「ほんと、黄生とは、落ち着いて眠れそうにない」

朱理は文句を言って、ベッドの端まで離れて、さらに反対側に寝返りを打った。

黄生と「は」?
駄目だ、と朱理は内心思う。一度スイッチが入ってしまうと、彼のことばかり頭に浮かんでくる。無意識のうちに、黄生と彼を比較している自分に気がつく。

「でもさ、朱理が読んだ本は、小さい女の子向けなんだろ?朱理はもう子どもじゃないよな?」

黄生はそんな朱理を覗き込みながら、こう続けるのだ。

「大人になったら、ちょっと違うんだぞ」

「どんなふうに?」

なかなか自分を寝かせようとしない黄生に、朱理は、ため息をついて、かすかに目を開けた。

「好きな男で、かけがえのない大切な奴なら、あちこち触らせてもいい」

「そうなの?でも、なんのために?」

「うーん、なんのため?そうだな、最終的には、子どもをもうけるため」

「へえ?」

「まあ、そんな目的なんかは、はじめはどうでもよくて、好きなやつには、とにかくくっついてたくなるもんなんだよ」
黄生のその一言で、見ぬふりをし続けていた、自分の感情に、はっきりと名前がつけられたことが、朱理にもわかる。


初恋。

あれは、恋だ。


その認識は、朱理にとっては、衝撃的だった。雷に打たれたみたいに。

依存ではなく、恋。


「朱理。どうした?城で何があったんだよ」


慣れない手つきで、ぎこちなく背中を撫でる黄生に、朱理は何も言えない。言葉の代わりに、胸から溢れる思いの代わりに、涙が次々に零れては落ちて、枕に吸い込まれていく。

何があったと問われれば、ひどい目に遭ったわけでもないから、青英の息子をあやしていたときのことを、朱理には上手く説明できそうにもない。

ただ、泣いている理由を答えるとしたら。


「私、青英のことが好きみたい」


ひとしきり泣いた後、朱理が涙声で、そう独り言を言う。すると、彼女の背後で眠ったんじゃないかと思われていた黄生が、そっとこう答えた。


「今ごろ気がついたのかよ」


夜、水浴びをしたから、体を冷やしてしまったらしい。

生まれて初めて熱が出た朱理は、その症状の重さに驚いた。

頭を締め付けるような痛み、体が燃えるような熱さ、関節がぎしぎし鳴るような痛み、声が発しがたいほどの喉の痛み。それらにじいっと耐えながら、思うのは、青英のことだった。

彼は風邪ではなかったはずだが、高熱で3日も意識がなかった。今の朱理以上の辛さだったに違いない。

『こうして俺が生還したんだから、お前ももうちょっと生きてろ』そう言ったときの、青英の低く強い声が、耳の奥に再び聞えてくる。

朱理の能力のせいで、あんな目に遭ったのに、そんなふうに言えるものだろうか。

それにしても、彼らしい言い方だったと、朱理は思い返す。朱理の罪悪感を利用して、「ずっと」じゃなく「もうちょっと」という肩の力が抜けた表現を使いながらも、最後には「生きてろ」と偉そうに命令するのだから。


「朱理、飲めるか?」


朱理が瞼を持ち上げると、金の巻き毛をこぼれ落ちさせながら、黄生が顔を覗き込んでいた。
何か飲み物を持ってきてくれたらしく、カップを手に持っているが、朱理はゆるゆると首を横に振った。吐き気も強くて、飲めそうにない。

「口移しで飲ませてやろうか」

黄生が本気なのか冗談なのか、そう言うから、「口移し」がどういう状態のことなのか、朱理は想像してみて、もう一度、でも今度はしっかりと、首を横に振った。

「キスは青英としかしない」

一旦気持ちを認めたら、朱理はそこから目が反らせなくなった。誰とでもするものじゃないって、青英が言ってた気がすると、朱理は思い返す。

「言ってることは自体はかわいいんだけど、その名前が僕じゃないってところがムカつくね」

黄生はむっとした顔になりながらも、どこからかスプーンを出して、横になったままの朱理の口に、水を飲ませてくれた。

「スプーン、持ってきてたくせに、変なこと訊かないで」

「朱理の答え次第では口で、とおも」

「いらない」

「冷たいな、ほんとに。だいたい、そんなにあの人が好きなら、あの城に戻ればいいじゃん」

黄生が、なんでもないことのように言うから、朱理は顔をしかめた。

「なんで?」

「君を探してるんじゃない?」

そう言われるまで、全くそんなことを考えもしなかった朱理は、初めてその可能性について考えてみた。

「ああ、探さないでって書き置きしなかったから?」

朱理が、勝手に納得してしまうから、黄生は苦笑した。

「書き置きの有無は関係ないだろ。前に俺が拉致した時だって、探しに来たし」

青英の胸に飛び込んだこと、その後のことまで思い出しそうになって、朱理は慌てて目の前にいる黄生との会話に集中するよう気をつける。

「あれは、神の声のことがあるから。私を野放しにはできないからでしょう」

「まあ、そうだとして。だとしたら、なおさらそれを理由にして、一生傍にいればいいじゃん」

黄生らしいと言えば黄生らしい考えに、朱理はため息をついた。

「それも無理。黄生もわかるでしょ?私の力が弱まってること」

「それがなんだよ。完全に消えてはないんだろ。これからもっと強まるかも、とか言っておけばいいんだよ。利用できるものは徹底的に利用して、初恋を実らせる、っていうのもアリじゃない?」

いかにも黄生の考えそうな手だけれど、と朱理は思いながらも、即座に否定した。

「ナシだよ。迷惑をかけることは減るだろうけど、相変わらず何の役にも立てそうにないし」

「役に立てるかもしれないけどね」

「え?私でも?」

顔をぱっと輝かせて、素直に朱理が訊ねるから、黄生は、続きを言うべきどうか、早くも躊躇い始めた。

「…まあ、朱理の体が、ある程度丈夫なら」

「うん。丈夫なら?」

どこでこの会話を打ち切ろうかと黄生が画策するのに、朱理はきらきらした目で続きを催促し続けるから、仕方なく黄生は口を開く。

「あの人の子どもを産んでやればいい」

「子ども」

「子どもだけは、男には産めないだろ。まして、あの人は国を継ぐ立場にあるんだから、何人も子どもがいたっていいんじゃないの」
「そっか。ここにいても産めるの?」

「はあ?」

「だから、青英に会わなくても、私がここにいても、赤ちゃんって産める?」

「…産めるわけないだろ」

「そうなの?じゃあどうすれば赤ちゃんは」

「もう僕、この話はしたくない」

唐突に話を遮られて、朱理は明らかに不満な顔で、黄生を見つめている。が、黄生にしてみれば、これ以上この話題を続けるのはきつい。

経験はおろか、知識すら持たない朱理に、説明をするのはいろんな意味で、重荷だ。

「まあ、いいや。私、人並みの体温になった途端、熱が出るなんて、どうも自分で思ってた程は丈夫じゃないみたいだし」

朱理は、自分に言い聞かせるみたいに、そう呟いて、目を閉じた。額は汗ばんでいて、顔も赤い。


ふいに、朱理は、美砂の心境が複雑だっただろうということに、気がついた。

美砂は、はっきりと、青英のことが好きだと言っていた。なら、こんなふうに、寝込んでぐったりした青英の看病だと言って、朱理が傍についていることを、どう思ったんだろう。

また、それとは反対に、朱理は、自分が美砂になったところを想像してみる。

高い熱を帯びた体は、子を宿した体とは、ずいぶん様子は違うだろうけれど、思い通りに動かせないと言う点では同じだ。

自分が身動きが取れないときに、好きな相手の世話を焼く人間が、現れたら。


美砂。

私が思っていた以上に、あなたは優しくて、強くて、私を大切にしてくれていたみたい。


当時の、考えの浅い自分を後悔しながら、朱理は、一層、美砂のことが好きになった。

「黄生。美砂は、本当に、素敵な人だったね」

朱理が、熱い呼吸の下で、そう呟いたから、黄生は無意識のうちに微笑んでいた。

「自慢の姉だったよ」

「いいなあ、私も美砂の妹に生まれたかった」

「羨ましいだろ。千砂は真面目すぎて厳しいところもあるけど、美砂はおおらかでおっとりしてたから、俺にとってはシェルターみたいな存在だった」

「どうせ、黄生はいたずらばっかりして、やんちゃだったんでしょ。千砂と美砂を困らせてたに違いない。私がもし三女だったら、弟の黄生とは喧嘩ばっかりしてただろうな」

黄生につられたように、ふっと朱理が笑みを漏らすから、黄生は、彼女をぎゅっと抱きしめたいという衝動に駆られて、それを抑えるのが大変だった。

「喧嘩ばかりでも、きっと、僕は朱理と遊びたがったと思うよ。3人の姉の中でも、一番おてんばな姉と」

黄生がそう答えると、朱理は嬉しそうに微笑みながら、眠りに落ちた。

兄弟。その響きは、朱理にとっては憧れを抱くものだったから。美砂、千砂、私、黄生。もし、そんな4人兄弟として育っていたら、私の人生も性格も何もかも、違っていたんだろうか。

どちらにしても、賑やかで、きっと私はその3人の姉弟を、大切に思うんだろうな。

そう考えながら。


< 16 / 18 >

この作品をシェア

pagetop