身を焦がすような思いをあなたに
「目が覚めたかい?」

ふっと目を開くと、朱理は、煌々と明かりがともった室内の、ベッドの上にいた。

しわがれた声のした方に目をやると、いったい何歳だろうというくらい高齢に見える老婆が、椅子に座っているのがわかった。

言葉を発しようとすると、喉が渇き切っていて、そのひりつく度合いは声が出ないほどだったので、朱理は小さく頷いて見せた。

「飲んでごらん。森の野草ときのこのスープだ」

一旦部屋を出て、いい匂いのするボウルを手に、老婆は、朱理のもとへ持って来た。

体を起こそうとすると、腕ががくがく震えるから、老婆が支えてくれた。

ごくり。

一口飲むと、そのわずかな塩分にも喉がひりりとするようだった。お腹の中に、温かい液体が流れ込んでいくのがわかる。沁みて行くように。

これを飲んだら、元気になってしまう。また、死ぬ時期が、遅れてしまう。

頭の中ではそう考えているくせに、ボウルを手放すことができずに、ごくりごくりと、中のスープをすっかり飲み干してしまって、朱理は自分の意志の弱さにがっかりした。


「美味し過ぎる」

「ん?」

「スープが、美味し過ぎました。ごちそうさまです」

「妙な表現だね。まだあるよ。お食べ」

「……」

「なんだい、遠慮するんじゃないよ」

勘違いして、おばあさんは朱理の手からボウルを奪うと、今度はなみなみとスープを注いで、野菜やキノコの具もどっさり入れて匙を突っ込んで戻ってきた。

我慢できるはずもなく、朱理はそれを全て平らげて、ばたんとベッドに横になった。だって、美味し過ぎるんだもん、と自分に言い訳をしながら、ぱんと膨らんだお腹を撫でていた。


「あんた、朱実の娘かい。よく似てる。美人だ」


朱理は、心臓が止まるかと思った。

「お母さんを、知ってるの?」

びっくりした顔のままで、朱理がそう尋ねると、老婆はくしゃりと顔を緩めて、少女のようにふふふと笑った。

「あんたの澄んだ声を聞くと、まるで本人と話してるみたいな気になるねぇ。もちろん、あたしは、朱実を知ってるよ」

お母さんを知っている人。朱理は、父親以外で、母親を直接知っている人間と接するのは、これが初めてだった。朱理の耳にときどき届く母にまつわる話は、噂や憶測でしかなかった。

「おばあさん!教えて、お母さんのこと、お願い!」



あれは、迷い込んだんだ、この森に。

あれも、あんたほどじゃないものの、自分の能力を持て余し気味だったからねぇ。

古い書物の中に、全てを清めて無に返す、聖なる泉のことを見つけて、それを探していたと言ってたね。もしかすると、その泉の力で、自分の能力をうまく制御できるんじゃないかと思っていたらしい。

ん?その泉が実在するかどうかって?…さあ、ね。

まあ、ここへたどり着いた時には、あんたよりはよっぽど元気だったよ。意識もあったし。

「喉が渇いた!」って叫んだよ、あんたそっくりの綺麗な声で。あたしの顔を見るなりさ。人懐っこい子だったねえ。

その点、あんたはちょっと、人見知りだね?ああ、あんた、名前は?

ふうん、朱理、か。良い名だ。

まあ、あんたの人見知りは仕方ない。ずっとあの塔に閉じこもってたんだからさ。は、知ってるに決まってるだろ。あんたは、自分が思ってるより有名人だよ。

とにかく、美しい娘だったよ、朱実は。

やたらきらきらして眩しいと思ったら、好きな男がいるらしくてね。元の顔立ちだけじゃなくて、その気持ちが、余計に朱実を綺麗に見せてたんだろ。

そいつのために、自分の力を弱めたいとか言ってたよ。

それが、あんたの父親だろ?



老婆の話を聞いて、朱理は、初めて、空想するしかなかった母親が、実在していたのだと、感覚的に理解ができた。

しかも、今の私くらいの年頃で、どうやらお父さんに恋していたらしいお母さんだなんて、天国で下界を見下ろしているところを想像していた時より、ずいぶん身近で人間らしい存在になった。

お父さんのこと、好きだったんだなぁ。朱理は気恥かしいような、くすぐったいような、でも温かな気持ちで、若い頃の両親のことを考えてみた。「で、『朱理』は、何しに来たんだい?」


そう尋ねた老婆の目は、もう笑ってはいない。朱理の答えをじいっと待っている。

「これ以上、人を傷つけないために」

朱理は、慎重に言葉を選んだ。一番正確だと思われる表現で、答えたつもりだ。


「要するに、死に場所を探しに来たんだろ」


にもかかわらず、あっさりと端的にまとめられてしまって、朱理は何も言い返せなかった。

「全く。そんなことされちゃ、寝覚めが悪い。この森を墓場にするのはお断りだよ。さあ、一口ミルクを飲みな。飲んだらさっさと眠るんだよ」

ぷりぷりと怒ったような表情を作って、老婆は畳みかけるようにそう言いながら、朱理にぐいぐいとカップを押し付けてくる。

「え?眠る?私、ここに泊まってもいいの?」

老婆は、にんまりと笑う。

「明日から、しっかり働いて宿代はもらうから、安心おし」

そう言うと、しっかりと肉のついた腕で、意外なほど力強く朱理をベッドに寝かせると、さっさと明かりを消して、隣室に消えたのだった。
「朱理。今日は部屋の掃除を手伝ってもらうよ。その前にあんたが、ずいぶん汚れてるから、まずは自分を綺麗にしてきな」

そう言われて、朝食もそこそこに、朱理は、タオルとともに外に放り出された。

「…あそこで、水浴びしろってことだな」

木々の隙間から、水面がきらめいて朝日をはね返しているのがわかった。

老婆の家の周りは、まるで木が避けるように空間が開けているが、見渡す限り、木しか見えない。重なり合った枝の隙間から、朝の光がこぼれ落ちて来る様子が、神々しいくらいに綺麗で、朱理はため息を吐いた。

それにしても、あの恐ろしげな森の中が、こんなに心地よく爽やかなところだとは。

4つの国とも木を隔てているせいか、どこの土地とも違う、穏やかで温かな気候のようだ。きっと、朱理でなくとも、外で水浴びをしたって、気持ちがいいような快適な環境なのだろう。

朱理は、陽輔にもらったワンピースもグローブも靴下も、ずっと身につけたままだった。老婆の家を燃やしてはいけないと思ったから。

はあ。全てを脱ぎ捨てて、おそるおそる、湖に足を入れると、後はその気持ち良さに、吸い込まれるように、深いところへ向かう。

裸って、こんなに気持ちいいのか。水の中って、こんなに気持ちいいのか。
父親が、研究を重ねて作ってくれた、ナンネンソウの服を、ありがたくは思う。でも、それを脱いで、自由に動かせる水の中は、朱理にとって新鮮だった。体が浮くことさえ、驚きだ。

外出もほとんどしなかった朱理にとって、一番たくさんの水を見る機会は、入浴する時のバスタブだったのだから。

夢中になって、湖の中で泳いでいた。


疲れ果てて、水面にぷかぷか浮いていたら、老婆が自分を呼んでいるのが聞えた。

「朱理。いつまで遊んでるんだい。仕事の時間だよ。掃除を手伝っておくれ」

「え?いいの?」

「今からこき使われるって言うのに、なんで『いいの?』なんだい」

老婆はからからと笑った。

「嬉しい。私、頑張って働く!」

朱理が弾けたように笑って、ばしゃばしゃと湖から上がる。


「もっと笑いな」


「え?」
「あたし、あんたの笑った顔、好きだよ」

いつか、自分が言った言葉が、耳に蘇ってくる感覚が、すさまじく早くて激しくて、朱理は目眩を覚えた。


そう。私も、あの人の笑った顔がすごく好きだって、言った。


「しっかりおし。働くには、ともかく、もう少し食べて、体力をつけることも必要だからね」

老婆は、そう言いながら、ふらつく朱理にタオルをかぶせ、いつの間にか用意してくれていたらしい着替えのワンピースを頭からかぶせた。

「なんだい。やっと、今頃になって、泣くのかい」

老婆は、呆れたような言葉を漏らしたものの、その顔は優しかった。


青英。今、どうしているんだろう。


考えないように努めていた人の顔が、胸一杯に広がってくるから、朱理は呼吸が苦しくなった。


美砂が死んでしまって、私が赤ちゃんまで傷つけたら堪らないと、思ったんだろうか。

朱理は、赤子をあやしていることで、あんなに青英が激昂するとは思わなかったのだ。
出会った当初こそ、朱理は、青英のことを冷たい嫌な奴だと思っていたけれど、次第に、その印象は変わっていった。

朱理の怒りを上手く逸らしてくれたり、不安に気がついたり、…一緒にいると、いつの間にか、朱理の熱しやすい心は穏やかになっていることが多かった。

青英は優しさを全く見せないし、それを指摘したところで認めてもくれないのに、青英といることが、朱理にとっては楽になっていた。

青英にしても、無口ながらも少しずつ、考えや思いを口にしてくれるようになっていた、はずなのに。

それは、私の勘違いだったんだろうか。

結局は、神に命じられて、仕方なく私のお守りをしていた、ということだろうか。

美砂が産んだ息子にだけは、触れてほしくなかったんだろう。「ここに近寄るな」と言った時の、青英の珍しく怒りを含んだ声が、耳から消えない。


駄目だ、私は。

こんなに嫌われてるのに、まだ、青英に依存してる。


朱理は、自分の目から零れて行く、どうしても我慢できない大粒の涙に、それを悟った。

「ねえ、おばあさん。聞きたいことがある」

「ん、なんだい」

朱理は、老婆に教えられて、スープに入れる野菜を刻んでいる。

「ここに来てから、私はずいぶん元気になったと思うけど、何に触れても一度も物が燃えない。ナンネンソウの繊維を身につけていないときもあるのに、なんでかな?」

今日だって、と朱理は自分の恰好を、見下ろす。エプロンの下は、シンプルなプルオーバーに、ショートパンツだ。老婆の若い頃の服だろうか、不思議と朱理の体格に合うものを、着替えとして借りている。


「毎日、湖で水浴びしてるせいだろ」


「えっ!?」

朱理が大きな目を丸く見開くから、その素直な反応に、老婆はからからと笑った。

「聖なる泉はないって、あたしは断言したかい?」

そう言うと、にいっといたずらな笑みを浮かべる。

「あれが、聖なる泉なんだ!」

朱理は、こんな深い森の中に、自分の長年の悩みを消してくれるものが存在していたなんて、奇跡みたいだと思った。


「まあね。でも、あんたの力は、まだ強まりそうだねぇ…。20歳を超えたら、本格的に目覚めるよ」

朱理は、老婆のその言葉に、再び口が重くなった。幾度となく、人から言われるその年齢。そこまで、あと1年もないのだ。

「ずっと、あの湖に浸かっておくしかないね」

朱理が苦笑してそう言うと、老婆は首をかしげながら、再びにいっと笑った。

「そうでもない」

「え?」

「その力、いらないなら、あたしにおくれ」

「ええええっ!?」

朱理がのけぞると、老婆は大笑いしているけれど、朱理はちっとも笑えなかった。明るくて面白い人だと思ってたけど、この私の力を欲しがるなんて、変人だ。
「おくれ、って言ってくれるなら、あげたいくらいだけど」

朱理がくすくす笑ってそう答えると、老婆はすうっと笑いを納めて、こう念を押したのだった。


「いいんだね?じゃあ、貰い受けよう」


朱理も、真面目な顔になって、思わず頷いた。

「ならば、引き換えに、あんたに何かを授けるよ。望むものはあるかい?」

「……長い……」

「は?」

朱理は、とっさに口をついて出た小さな声に、自分でも笑いそうになった。

「だから、長い髪!」

「はあん、あんたも、若い娘だもんね。髪を伸ばしてみたかったわけか」

この火を操る力と引き換えに、美砂のように長い髪を手に入れることができたら。朱理は、自分のその想像だけでも、うっとりした。
久しぶりに幸せな気持ちで、鍋の中に野菜を入れて、煮込む。

ぐつぐつ。ぐつぐつ。湯が煮えて、泡で水面が揺れる。

ぐつぐつ。ぐつぐつ。


ふと、妙な感覚に、朱理は背中に手を伸ばして、その直後に、大きな悲鳴を上げた。


「おばあさんって何者!?」


隣で、鍋の中身を掬って味見をしながら、老婆は片目をつぶってウインクしてみせた。

「さあね」

かわいらしいその仕草に、朱理は思わずにっこりと笑ってしまった。


「わかった、魔法使いだ。聖なる泉を守る、魔法使い」

「いいね、それ。そういうことにしておくれ」

「でも、おばあさんは、どこか火傷したりしてない?私の力は、うまく吸収できた?」

朱理が大きな瞳で、心配そうに顔を覗き込むから、老婆はけたけたと笑った。
「できるに決まってるだろ。おかげで寿命が延びた」

「へえ!?あの力が、命に変わるの?」

朱理は、たとえそれが全て想像だったとしても、とても素敵なことだと思った。自然と、大輪の花がほころぶように微笑んでいた。

「たぶんね。一層元気になってきたし、また長生きできそうな気がするよ。ところであんた、長い髪はどうだい?」

老婆も、そんな朱理の笑顔を、嬉しそうに目を細めて見ている。

「ありがとう。夢を見てるみたい」

朱理は、信じられない思いで、もう一度、自分の頭から腰までを指で触れて確かめてみる。

やっぱり、繋がってる。髪が、こんなに短時間で、こんなに伸びてる。

「夢だったの、ずっと。髪を伸ばしてみたかった。普通の女の子みたいに」

「そうかい。好きな男でもいたのかい」

朱理は、首をかしげるだけだったけれど、老婆は美しさを増した朱理を、眩しそうに見つめていた。



朱理が見つからない。

流が手配して、国中を探させたものの、彼女の姿を見かけた人物さえ、ほとんど見つからない。

だいたい、元は、朱理は他国の一般市民に過ぎないのだから。たとえ、堂々と街を歩いていたとしても、赤みがかった髪の色以外は、人の印象には残りにくいだろう。

その出生時のエピソードで、火を招く力の強さが有名なだけで、塔の最上階に閉じこもって生きていた彼女の姿かたちを知る者は、ごく一部の近しい人間だけなのだ。


1日の終わりに、主である青英に、朱理が見つからないとの報告をする度に、流は自分だけが焦燥感に駆られていくような気がする。

「そんなにお探しになるなら、なぜ、彼女にあんなにきついことをおっしゃったんですか」

流は、堪え切れずに、そう尋ねた。尋ねた直後に、すでに後悔し始めていたが。

「わからない」

青英が、ぽつりとそう呟くから、流は聞き間違えたかと思って、まじまじと主の顔を見つめてしまった。

正当な理由を言うか、「うるさい」とはねつけるかの、どちらかだろうと、答えを予想していたから。

「どうしてあんな言い方をしたのかも、どうして探し続けるのかも」

端正な青英の横顔が、憂いを孕んで沈んでいるから、流ははっとした。

「申し訳ありません。捜索を続けるよう指示を出します」


青英は、昨日の深夜、ひそかに水を操って、国中を隈なく探した。夜露に紛れて、地面が濡れたことにも、誰も気が付かなかったはずだ。

放った水を伝って、さまざまなイメージや情報が、青英に届くのだ。黄生に連れ去られた朱理を見つけたときのように。


ちっ。あの日、目に入った、黄生に唇を奪われている朱理の姿が鮮明に蘇ってきて、青英は苛立った。

あのガキ、美砂の弟でなければ、何としてでも捕らえて牢にぶち込んでやるのに。

そう思いながら、何日も経っているのに、まだ、黄生をどうするかも決めていなかった自分に気がつき、青英はさらにイライラしてきた。


どこで、何をしている、朱理。


もしかしたら、他国まで、逃げたんだろうか。

あるいは、あの、俺の水をすっかり吸収してしまって、奥まで届かないばかりか、何も伝わって来ない辺境の森。

死んでいないのであれば、もうそのどちらかの可能性しかない。

どちらにしても、攫われた痕跡のない朱理は、自分の意思でこの城を出たのだ。そして、水の国のどこにも、もういないのだ。


青英には、自分が朱理にきつい物言いをしてしまったことだけでなく、朱理がこの国を出て行った理由も、よくわからなかった。

当然、そんな朱理を自分が探し続けている理由も。
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