君の知らない空
彼は追われている。
既にわかりきったことなのに、何としても彼に縋りたかった。彼を引き止めておきたかった。
「亮はどうするの? どうして一緒に行けないの?」
耐えきれず顔を上げると、柔らかな笑みを見せる彼。
「僕は次に来る電車で夕霧駅に行く。橙子とは、ここで別れることになるけど、必ず家に送り届けてもらうから安心して」
穏やかな声で、頬を押しつける。
間もなく次の電車がやって来る。焦る気持ちをぶつけるように、私は彼にしがみついた。
「嫌だ、ひとりで行けない」
「橙子、お願い……」
言いかけた彼の表情が僅かに強張る。私に悟られないように、緩やかに口角を上げるけど隠しきれていない。
私を見つめながら周囲を警戒する彼を追って、私も耳を澄ませた。ホームへと階段を駆け上がってくる足音が近づいてくる。
「顔を伏せて」
彼が声を潜めて抱き寄せた。私の頭を支えながら腕の中に隠すように。
胸に押し付けられた頬から伝わる鼓動は、私と負けないほど速い。本当は彼も私と同じ、顔に出さないだけなんだ。
階段を駆け上がってきた足音が、私たちの傍を通り過ぎていく。小さく息を吐いて、彼が腕の力を緩めた。
「大丈夫……」
彼の声を掻き消すように、電車の到着を知らせるメロディが流れ始める。霞駅方面へと向かう電車がやって来る。
この後すぐに、夕霧駅方面の電車も到着するはずだ。
遠く線路の先に、電車のヘッドライトが見えてきた。
「橙子、電車を降りる人たちと一緒に駅を出て。今日はありがとう」
彼の優しい笑顔。
何も言葉を返すことができない私の頬を、彼の両手が包み込む。重り合う唇から感じられるぬくもりは、私たちが今ここにいる証。