Secret Lover's Night 【連載版】
上着も持たず夜の街を駆け、辿り着いたのは二階建ての小さなアパート。そのまま鉄製階段を大きな音を立てて駆け上がり、左奥の扉の前で一呼吸。
コンコンと扉を叩くと、聞き慣れた男の声で返事があった。

「は?」

声が出たのはほぼ同時。
似た声音は、少しの年齢差だけが重ならなかった。

「何やねん。何しにきてん」
「いや…あー…玲子は?」
「おっても会わせんわ」
「いやいや。ここ玲子の家やろ?」
「せや。だから何やねん」

玄関先の押し問答にその家の主が気付いたのは、シャワーを終えてバスルームの扉を開けてからだった。

「ともちゃん?誰か来て…」
「何でもない」
「何でもあるやろ。玲子、俺や」
「は?はるちゃん!?」

スエット姿の玲子を庇うように前に立つ智人は、ぐっと奥歯を噛み締め、少し高い位置から晴人を見下ろしていた。

「何でここに…って、上着は!?寒いから入って!風邪引いてまう!」

智人を押し退け、玲子は晴人の手を取る。邪魔者は俺か…と小さく呟いた智人は、玄関に置きっ放しにしていた上着を取ってそのまま玲子のアパートを後にした。

「あれ?ともちゃん?」
「ええから放っとけ」
「いや、そんなわけには…」
「話あるんや。二人で話したい」

真っ直ぐに自分を見つめる晴人の目に、玲子の鼓動が面白いくらいに跳ねる。掴まれた腕から、全身に甘い痺れが回るのにそう時間はかからなかった。

「ズルイ…わ」
「どっちがや」
「いっつもそうやん!はるちゃんはいつだって自分の思う通りにする!」
「思う通りになんかなっとるか!」

腕を解こうともがく玲子を壁に押さえ付け、声を荒げて慌てて息を飲む。
ガタガタと震え始めた玲子が、支える間もなくガクリと膝を折った。

「はな…して。離してっ!うちに触るなっ!」

パンッと払われた手が、静かに宙を舞う。千彩の時とはまた違う、鋭く尖った目つきに、ゾクリと背中が粟立つ。

「れい…こ」
「帰って」
「俺の話は聞きたないってか」
「そうや。はるちゃんと話すことなんかない。この裏切り者!」

ダメだとわかっていても、どうにも止められなかった。頬を叩いた右手が、ジンと熱くなる。

「どっちが裏切り者や!俺はお前に責められるようなことはしてへん。裏切って逃げたんはお前やないか!」

一気にまくし立て、肩を上下させながら唇を噛む。頭の中では何度も「アカン、冷静に…」と繰り返すのに、思い通りにはならない。抑えきれない感情の波が涙になって溢れ、晴人はいよいよ覚悟した。

「俺は…ホンマにお前のことが好きやった。東京なんかホンマは行きたくなかったけど、お前と恵介が一緒やったらやれると思った。ほんならお前は浮気するし、そっから急におらんなるし…俺にどないせぇ言うねん」

涙が格好悪いだとか、震えた声が情けないだとか、そんなことを考えている余裕はなかった。

「お前がおらんなって、俺の中で何かが切れたんや。もう恋愛なんかええって思った。仕事して、適当に女と遊んで、もうそれでええと思っとった」

出掛けに見た千彩は、プリンを頬張りながらご機嫌だった。あの笑顔にどれだけ癒されたか。本気で「神様が自分に遣わせてくれた天使だ」と思ったことさえある。

「結婚なんか一生する気なかった。あんな思いするくらいなら、仕事ばっかの人生のがマシや、ってな。でも、千彩に出逢った。まだガキやし、ちょっと変わった奴やけど、アイツが俺を裏切ることはない。こっちが戸惑うくらい真正面からぶつかってくる奴やからな」

千彩と向き合う時は、いつだって大人の晴人の方が余裕がない。色んなことが不安で、泣いたり笑ったり忙しいけれど、それでも自分を裏切らないことだけはわかる。だからこそ、婚約までして囲い込んだのだから。

「俺は千彩と結婚する。寂しい思いしてきたらアイツに家族作ってやるんや。二人で幸せになるって約束した。それがお前に対する裏切りなんか?」

ただ、幸せになりたい。
やっと掴みかけた幸せだから、絶対に手放したくない。
そして、千彩を幸せにしたい。

晴人のそんな思いは、震える玲子には伝わらなかった。

「自分だけ幸せになるんかっ!裏切り者っ!」

キッと晴人を睨み上げ、一気に感情を溢れさせる玲子。別人かと思うほど歪んでしまった表情に、晴人は静かに眉根を寄せた。

「うちだって寂しかったわ!友達もおらんようなとこで毎日一人にされて!あんたらはええわな!毎日二人一緒で楽しそうで!何でうち連れて行ったんや!行きたない言うたやろ!」
「それは…」
「もううちのことは放っといて!勝手に幸せになれっ!裏切り者っ!」

ドンッと突き飛ばされ、晴人の中の何かがプツリと切れた。

「もう…ええ。こんだけ時間経っとったらもっとちゃんと話し出来るかと思ったけど、話しにならんわ。お前がどんだけ泣こうが喚こうが、俺は千彩と結婚する。お前とはもう終わった。裏切り者はお互い様やってことにしといたるわ。じゃあな」

この先は自分の役目ではない。そう思い立ち上がると、黙って靴を履いて扉を開く。静かに扉を閉めると、向こう側から喚き声とも泣き声ともとれる声が聞こえ始めた。

「あほかっちゅーねん。意地っ張りも大概にせぇよ」

白い息を吐きながらそう呟き、ゆっくりと足を進める。鉄製の階段を下りると、小さく蹲った智人の姿が見えた。

「出番やぞ、救世主」
「せっかく宥めたのにまた泣かせやがって…」
「これで終わりや。後は頼んだ」
「さっさと帰れ。ガキがゴネるぞ」

言われなくても…と肩を叩くと、グッと手首を掴まれた。

「恨みっこ無しやぞ?」
「は?」
「玲ちゃんは俺がもらう」
「俺のもんちゃうからな。好きにせえ」
「ホンマに…ええんか?」

真っ直ぐに自分を見据える智人の目が、不安に怯えているように見えた。

「返すわ。お前の初恋の人」
「はぁっ!?」
「連れて行って悪かったな。もう邪魔せんから大事にしたってくれ」

結局悪役か。と、ボヤキたくもなる。
冷たい風がやけに目に染みる気がした。
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