禍津姫戦記
目もくらむ光はまたたくまに広がり、そこにいたアゲハも獣も覆い尽くし、第一の結界まで広がってぴたりと止まった。光の柱は太い一本の滝となってごうごうと天に向かってのぼっていた。
 とどめるまもなく、姫夜の姿がすうっとその光のなかに吸い込まれた。
「姫夜――っ」
 我に返った兵士たちが勇気を奮い起こしてその光のなかに飛び込もうとしたが、雷に打たれたように、はじき返された。
「くそっ、どうすればいいんだ!」
 背後から、激しい馬の蹄の音と、那智の叫ぶ声がした。
「ハバキさま、神剣を――」
 那智の衣はぼろぼろに裂け血にそまり、左手は力なくだらりと垂れ下がっている。
 ハバキは反射的に抜きはなった剣を両手にかまえ、力一杯光の柱に突き立てた。
 その瞬間、目を覆うほどの光がはじけて、消え失せた。
 ようやく、ハバキの目があたりの闇になれたとき、その目に飛び込んできたのは、磐座の柱の前で、姫夜と対峙している異形の神の姿だった。
 風になびく長い黒髪。ほっそりした姿。それは、ある意味、姫夜の姿に酷似していると云えたかもしれぬ。
 だが、その姫夜によく似た神々しいまでのおもざしの左半分は焼けただれたように崩れ、眼窩には黒い穴が穿たれていた。大きな袖がはためいているが、左腕は肉が腐り落ちて白骨と化し、ぞわぞわと音を立てて、無数の足を持った長虫が、そのからだのうえを這いずり回っていた。だがたしかにそれは神であった。
 妖獣はその足もとにすりより、ケガレ神の左の手をぺろぺろと舐めた。
「わああああっ」
「ケガレ神め――妖しめ!」
 弓矢隊が狂ったような雄叫びをあげて、火矢を放った。
 その瞬間、姫夜がキッと振り向いて、比礼で払った。すると空を埋め尽くすほどの火矢も、ことごとく二人のからだに触れる前にはらはらと燃え落ちてしまった。
「なぜだ」
 ハバキは叫んだ。
 兄上。
 姫夜の唇がそう動いたように見えた。姫夜はゆっくりとその神にむかって手を差しのべた。ハバキは愕然とした。
「弓矢を――」
 ハバキはそばに倒れていた兵士の弓矢を奪い取って、矢をつがえ、ぎりぎりと引き絞った。するとケガレ神はすっと目を細め、かろくなにかを投げつけるような仕草をした。その手から、長い光の尾を引いて、三つの獣が走った。白い狼がかっと口を開いてハバキの喉笛に食らいつこうとした。その瞬間、姫夜がふりかえって、手首の玉を狼に投げつけた。玉は狼のまなこにあたり、狼は悲鳴をあげて、横に逸れた。
 他の獣たちも立ちふさがるものの首を食いちぎって、ヤギラが破った結界の破れ目から、外へと流星のように飛んだ。
「ケガレが溢れたぞ! のろしを――砦に知らせを――っ!!」
 小楯が狂ったように腕をふりまわして叫んでいる。
 毒気にあてられたように兵士たちがばたばたと倒れた。
 ケガレ神は微笑むように唇をつりあげ、ゆらりと一歩、姫夜に近づいた。黒い眼窩の穴からぼろぼろと蠱がこぼれ落ちた。
 やめろ――
 ハバキは剣をつかんだまま叫ぼうとしたが、声は音にならなかった。体が大地に縫い止められてしまったように動かない。
(なぜ、兄上がケガレ神に――)
 姫夜の心のうちの叫びをハバキは聞いた。ハバキと残ったものたちが凝視している前で、姫夜は吸い寄せられるように進みでて、伊夜彦のからだを抱きしめた。
 その瞬間、伊夜彦と姫夜の姿はかき消えた。ヤギラも消えていた。
 ハバキは、呪縛が解けたように磐座の柱に駆け寄った。
 だがそこには気を失ったアゲハだけが残されていた。その胸に姫夜が与えた守り玉が光っている。
「姫、夜――」
 行ってしまうことは、わかっていた。
ハバキはがっくりと膝をつき、二人が立っていたはずの地面を拳で叩いて、吠えた。

< 642 / 647 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop