最初から、僕の手中に君はいる
「僕が前に座るから、後ろに座ってね」

「……」

 私は、手渡された赤いライフジャケットを着ながらも、ある種の不安が頭から離れなかった。 水上バイクも普通の原付もハンドルなどの主な形は似ているが、後ろに乗る人が持つ持ち手は特にない。

「はい」

 畑山は簡単にまたがってみせると、後ろに乗るよう促した。

 言われるがままに、乗り込む。

「腰、持ってて。ゆっくり進むけど危ないから」

 ここで拒否するわけにはいかない。

 私は、そのウェットスーツに包まれた、黒い腰にゆっくりと両手を充てた。

「進むよ」

 言葉の通り、バイクが波の上をゆっくりと進んでいく。安定は悪くはなかったが、それでも、腰を掴む手に力が入った。

「あ、直が来た」

 言われて初めて、海の上に目をやる。

「気持ちいいですね。風が」

「うん。後で交代してあげるよ。運転してる方がもっと気持ちいい」

 ブウウーンと大きな音がしたと同時に、直はすぐに近くまできた。

「俺も女連れてくれば良かったなあ……」

 言いながら、畑山をじっと見た。

「あの2人は?」

 畑山はそれには答えず、話を逸らす。

「あれは一戦交えるね。確実に」

 直はちゃらけて答えたが、畑山は心配そうに後ろを見た。既にそこには誰もおらず、どうやらキャンピングカーの中に乗り込んだようだ。

「……」

「真紀さん美人だからなあ、年老いた兄ぃがそれが気に食わないの分かるけど」

 直はおかしそうに笑う。

「ずごく美人でしたね! 私も思います」

 共感できたので、ここぞとばかりに話に交った。

「アヤちゃんとことおんなじだね」

 直はあまりにも眩しい笑顔を向けたが、それを聞いた途端、畑山はスピードを上げてそこから離れた。

「わっ!!」

 予期せぬ動きに、慌てて、腰を掴む手に力を込める。

「しっかり掴まってて」

 本当にスピードを上げそうだったので、腰を抱きかかえるように密着した。

 頬に背中が触れる。

 ウェットスーツの皮一枚で、どうにか肌に触れずにいるが、あえて自ら抱き着いていることが恥ずかしくて仕方なかった。

 すぐにスピードは緩まる。後ろの轟音に気付いて振り向くと、直は全く違う方向に走り去っていくところだった。

 そのままもう一度岸に戻り、足が着くところまで乗り上げる。

「前どうぞ。本当は免許がいるけど、近場だと大丈夫だから」

 畑山は降りて、私をそのまま前にスライドするよう、指示する。

「これがアクセル、加速はこう。ハンドルで左右動くからね」

「わっ分かりませんっ、怖いです」

 それほど運転に興味があるわけではなかったので、不安が先に立った。

「大丈夫」

 畑山は後ろに回り込むと、腰を下ろし、背後から抱きしめる形で、アクセル……と、もう一度繰り返した。

 話は聞こえている。目も説明している箇所を見ているが、頭はそれどころでない。

 耳元で低い声が響き、肩に、その厚い胸が当たる。

「ハンドルに手置いて、一緒に操作してあげるから」 

 頭の中はごちゃごちゃだったが、言われるがままに、ハンドルに手を置く。ハンドルを握ると、親指が当たるところにアクセルボタンがあり、ブレーキは自転車と逆の感覚で、引くと速度が上がり、手を緩めると減速するという仕組みだった。

手の上に手が重なる。

「行くよ」

 海の上をゆっくりと進み始める。

「少し加速させるね」

 指の上から指を押される。少しだけ早く進んだ。

「これ、最高まで加速させるとどうなるんですか?」

「直みたいになる」

 怖かったが、よそ見をしてみた。なるほど、水しぶきで直の姿を確認するのが難しい。

「水しぶきで前が見えそうにないですね」

「前は見えるけど……試してみる?」

 畑山の口が髪の毛に触れるほど近づいたのが分かった。心臓がドキドキ高鳴って、それどころではなくなる。

「えっ、でも、大丈夫かな……」

「少しだけね……」

 言いながら、どんどん加速していく。

 畑山は、私の腰が落ちないように左腕で抱え込んだ。

 その腕が気になって、前どころではない。

 されるがままの状態にあたふたするだけで、景色どころではなかった。

「……チッ!!」

 畑山の舌打ちする声が聞こえたと同時に、バイクが右に大きくカーブする。あまりに傾きすぎて、頭が水に触れた。

 その時には既にハンドルから手を離していたと思う。

 落ちる感覚が本気で怖かった。

 目を閉じたと同時に、全身が海に投げ出される。

 ゴーグルをしていないので、目が開かなくて前が見えず、一瞬、息をすることを忘れた。

 だが、ジャケットのおかげか、畑山のおかげか、すぐに身体が浮いてくる。私は畑山にすがるように抱き着いた。

「ぷはぁ」

 大きく空気を吸い、手で顔を拭く。

 畑山は私をしっかりと抱きしめると、遠くを見渡した。バイクは少し離れたところで停まっている。

「ごめんね。大丈夫? 」

 畑山は私の顔を覗き込んだ。

「あっ、はい……」

「直が急に出てくるから。避けようとして、ハンドル切り過ぎた、ごめんね」

 近くに直がいただろうか、それすらもよく見ていなかった。

「直さん、全然見えませんでした」

「手だけ出してきたからね……」

 手?

「一旦上がろうか。真紀さんが待ってる」

 岸の方を見ると、真紀が仁王立ちしてこちらを見ていた。後ろでは、吉住がバーベキューセットを解体し、前では、赤いバケツや緑のスコップを持った息子達がいる。

 私たちは、もう一度バイクに乗り直し、ゆっくりと岸に向かった。

「また直君のいたずらー?」

 真紀は笑いながら聞いた。

「死を恐れもしない度胸だけはすごいな」

 畑山は苦笑しながら続けた。

「手だけ出してきた。気付かなかったらどうするつもりなんだか」

 背後から爆音とともに、直が現れる。

「やあやあ、諸君。見たまえ、この素晴らしきびしょ濡れの姿を」

「危ないんだよ」

 畑山は真剣な声を出した。

「目がいいから見えるでしょ? 俺もさすがに0.1の兄ぃの前ではやらないよ。確実に死ぬ」

 真紀は腹を抱えて笑いながら、

「0.2くらいは見えるってまた言うよ」

 と、目じりを拭いた。

「あ、ごめんね、彩っち。シャワーあるからね、浴びる?」

 あまりそこまで考えていなかったので、少し驚きながら、

「まだ大丈夫です。帰りに浴びます」

「……で、結局帰りどうするんだっけ?」

 真紀は畑山に聞いたのに、直は

「俺がホテルとったって言ってんだろ? 付いて来いよ」

 親指を自分に向かって指して、ウィンクする。

 畑山は完全にシカトだ。

 なのに、真紀は畑山を無視し、直に聞く。

「付き合う前にホテル泊まるの? 最近はそんなもん?」

「やまあ、それが畑山先輩のやり方なんじゃないっスかね?」

「へえー……」

 3人はそれぞれ畑山を見た。

「あのね、同じホテルなだけで部屋は別だよ! それに俺は、付き合う自信があるの」

 畑山は堂々と言ってみせた。だがそれが逆効果に働き、

「そりゃ上司だもんね、嫌とは言いにくいんじゃない?」

 と、真紀は簡単に言い、直は「うーん」と顔を顰めて笑った。

「だってさ、私から見れば確実に職権乱用だよ。うんうん、彩っち嫌なら嫌って言えばいいからね。今日だって、別にうちにとまってもいいし、私が送ったっていいんだから」

「なんなら俺んちもあるよ? 今日彼女来ないから、良かったらうち来てもいいし」

「あんたねー、慣れてんのよ。言い方が」

「冗談だよ、冗談! 俺はね、畑山先輩と違って、職権乱用してないし、むしろ職権なんて、乱用できる立場じゃないし」

「ホールの女の子掴まえて、よっく言うわぁ……」

 真紀は白い眼で見た。

「さ、次真紀さん乗ったら? 俺ここでみてるし」

 畑山は一番に会話から抜けて全員を無視し、さっそく砂浜に座り込んで砂をいじり始めた。

「直君後ろ乗って。直君が同じ海にいると思うと、安心できないもの。それなら、確実に見えてる方がいい」

「後ろにいると思ったら突然消えてたりしてねー」

 直はケケケと笑いながら、肩を揺らしたが、

「前はダメだよ」

 背後から静かに吉住が現れ、直は大きな声を出して驚いた。

「直は後ろ。ケガしないように全力でバックアップすること」

「バックアップってなんだよ……」

 直はライフジャケットを着てまたがる真紀の後ろに、簡単に乗り、背後から真紀の腰ではなく、胸の辺りを抱きしめて、吉住を見た。

「全力のバックアップ」

 その真顔に吉住はカチンと来たのだろう。

「代わって。俺が後ろとる」

 笑いながら降りる直にげんこつを食らわせ、後ろに乗り込んだ吉住は、さきほど畑山がしたように後ろから覆いかぶさるように、真紀の手の上からハンドルを握った。

「じゃちょっとだけ、行ってきます」

 吉住は畑山に言ったが、

「はいよー」

と、当人はそちらを見ず、砂の山を子供のために作っている。

「兄ぃすっげぇ独占欲なの。最近特にひどいよ。というか、結婚年数経つたびにひどくなってる気がする。
愛情の裏返しなのかなあ」

 直はぼんやり海を見つめながらつぶやいた。

「裏返しじゃなくて、あれが愛情なんでしょ」

 畑山は砂をどんどん盛りながら答える。

「けど、いいですよね。……っと思います、けどっ」

 私は何気に発したが、直がこちらをじっと見た。

「良かったね、畑山先輩、束縛を理解してくれるみたいで」

「…………」

 畑山は眉間に皴を寄せて、無言のまま。

「でもそれより、なんで……」

 直がまた喋りはじめると、畑山はよやく口を開いた。

「今度は僕が殴るからね……直」


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