正義の在処
それ以上、臆病な彼には近づけなかった。


女性は血に彩られた顔で微笑っていた。
赤い石のピアスが、血で固まった黒髪の隙間に見える。


「私には…わからないのです」


化粧っ気のない唇から言葉がつむがれる。

「な…何がですか?」

臆病な彼は思わず尋ねた。
彼には、わからない何かすら怖かったのだ。

「何が正しいのか、間違っているのか…そもそも、正しいものなどあるのか」


女性の言葉は、続く。
凛としたソプラノ。
彼は、警戒態勢を崩さないまま、ただ止める理由もなく立ち尽くしていた。
臆病な彼にはわかっていた。
女性の周りに出来た血溜りから、彼女が数分で生命活動を終了させることがわかっていた。
だからこそ、時間がたつのを待っていたのだ。

「私は、ただ赦せなかったのです。彼を殺した敵国が…憎かったのです。それだけのはずでした…」


女性はそこで一度言葉を切り、咳き込んだ。
肺からの出血が、女性の口元に赫い華を咲かせる。


「だからこそ、敵国にもぐりこみ医者をやってきました。私は治療が無駄な兵に、劇薬を投与しました。薬品の無駄だと放置された人を殺してきました…」


女性はそう言って、一粒涙を落とした。
涙は肺からの出血と混じり、桃色の雫となって地面に散る。


「だけれど、皆幸せそうにお礼を言って死んでいきました。ありがとう、やっとこの戦争から開放されると、泣いて死んでいきました……私は、敵を殺し…安らぎを与えていたのです…」



そして、失血から揺れる視線を彼女は懇願するように持ち上げた。



「教えてください…私は正しい復讐を…果たしたのでしょうか…?……私に…は…わからない…のです……何がただし…かった……のか、何がまちが…ているの…か………正しいことなど…あるの……か…」



失血から、遠のく意識に―――死の暗闇にもまれながら、《同郷の人間》…そして敵国の医者は言葉を紡ぐ。
自身の正しさを…誤りを…真摯に問いかける。



何が正しいのか、間違っているのか…
そもそも、正しいものなどあるのか―――と



その死にゆく真摯な問いかけに、彼は恐怖を感じた。
言うなれば、自分が立っている足場が崩れていく恐怖に近いかもしれない。
それほどに、彼の中では戦争とは正しいものであり、それに対しての疑問は抱いていなかった。
いや、臆病な彼にはそのような疑問は抱いてはいけないものだった。
それ故に、彼は激しく怯えた。


恐怖に揺れる指が、構えたマシンガンの引き金を衝動的に引かせた。



ぱらららららら


軽い連続破裂音。
飛び散る脳漿。
散らばる白い歯。
まるで、トマトケチャップがはじけたような赫。
意思を生み出す器官を失くし、崩れ落ちた身体。



銃口から昇る硝煙。
震える指。
青ざめた顔。


何処までも臆病だった彼。





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