一緒に暮らそう
「よお、紗恵ちゃん」
 懐かしい声がして振り返ると、そこにはパリッとしたスーツ姿でタイを締めた中山さんが立っていた。リサイタルの開演時間よりも早く、彼はリハーサルをしにやってきたのだ。
「あら、中山さん! お久しぶりです! 今日はすごく格好いいじゃないですかぁ!」
「惚れ直したか?」
「ええ。惚れ直しましたよ」
 彼に会うのは老人ホームでの仕事を辞めて以来だが、会えばすぐにかつての調子で遣り取りを交わすことができる。
「今日は僕の道楽のために朝からえらいすんませんな」
「とんでもないです。私、中山さんの演奏がすごく楽しみです。腕によりをかけて料理を作ってますよ」
「それはほんまおおきに。あんた、相変わらず元気そうやな。結城オーナーから仕事頑張ってはるって聞いたで。旦那はんはどない?」
「お陰様で元気です。彼も今晩ここに来ますよ」
「そうなん? 僕、あんたの旦那はんに一度会うてみたかってん。なんせ恋女房のあんたのために、花の海外赴任をあきらめはった人やもんな」

 紗恵が日本に残る決意をして間もなく、新多はアメリカ赴任の話を辞退したのである。彼は新妻と離れ離れになるのは耐え難かったのだ。
 それに、折しもアメリカの学会誌に掲載された新多の論文が、その年に発表された研究論文の奨励賞に輝いた時だった。彼は新しい環境に飛び込むのはやめて、住み慣れた日本で腰を据えて研究をすることにした。研究者として実績を積んでいけば、今度は向こうの研究機関から招聘されて渡米することだって夢ではないかもしれない。いつかまたチャンスは訪れるはずだ。
 新多が社内公募を辞退した後、古屋翔子がアメリカ赴任に手を挙げた。彼女は現在、新多が行くはずだったカリフォルニアはシリコンバレーにあるトイダ製作所の米国支社で働いている。

 そういうわけで紗恵は、この町に最初に引っ越してきた時のように、新多のタワーマンションに二人で暮らしている。
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