くだらない短編集
終わらない夢





「今日此処に来るまでにね、犬がね、四足歩行で歩いていたんだ。空も青いし、ビルが四角だったんだ。地面は茶色でね、葉は緑色。可笑しいね」

男は言うと、窓から外を見る。都会の真中の、路地裏の小さなカフェ。懐旧の念に駆られる程の古ぼけた室内装飾。窓から見えるのは隣に建築されたビルの灰色の壁だ。春が到来するこの季節、柔和な日差しは街道を照らしている。晴天の空には、浮遊する白雲。此の隣ビルさえ無ければ、と何回思考したことだろう。


「何を言っているの。犬は普通四足歩行で、空は青でビルは四角よ。普通よ。何を言っているの」

眼前の猫足の椅子に座る彼女が、唖然とした口振りで言葉を落とした。白いTシャツに、カーゴパンツと云うラフな格好の、彼女。何を言っているんだ、と此方とて愕然とする。自身の大脳辺縁系の一部で、側頭葉の裏側にある海馬に尋問してみても、応答は無い。


「空は紫色で、犬は一足歩行で、ビルは球体だ。緑色の木はパソコンの心臓だろう、あんな無防備で良いのかい」

此処に常識は存在しないのか。彼女が白痴なのか。頓らに記憶が黙秘を続行しているせいで、仕切られた現在と過去の境目が消去されて逝く。自分の常識とは、何だったろう。否、四足歩行は鳥類だけだ。そんな気がする。


「其れはきっと、夢の中だったのよ。夢。貴方は夢を見てたの。だって、葉は何の変哲も無い葉よ。パソコンには心臓は無い。太陽は水没しないの」

月は世界最大の魚類で、宇宙遊泳は蛙が最初で。嗚呼、そうなのか。夢だったのかもしれない。男は木製の机の上に座するコーヒーに目をやる。何時から其処に在っただろう。突然出現した様にも、太古から其処に存在していた様にも感じられる。

そう言えば、と。店内を見渡して男は思った。眼前で座る彼女も、何時から其処に居ただろう。店長であろうマスターが視界の端で新聞を読んでいる。分からない。解らない。此処は現実だろうか、夢だろうか。現在か過去か未来か。蝉は海を泳いでいないのか。


「夢と現実が混ざっちゃったのよ。気をつけないと、連れて行かれちゃうわ。夢と現実は区分けないと。此処は現実、そっちは夢」



ね、と彼女は首を傾げた。そうか、気をつけなければ、と男は女に目を向ける。女は一つ目でじっと此方を見つめている。


■終わらない夢



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