隣人Ｍ

ちいさな愛の告白

雨が、止まない。夕夏は、濡れるのもいとわずに、うずくまって震えていた。

ひどい罪悪感。こんな気持ちになるのは、久しぶりだった。銃の引き金にかけた指が、冷え切って、感覚がなかった。だが、なぜか銃を手放せなかった。

硝煙の向こうにかすんで見えた、倒れ込む椎名の姿。……どうして、私は椎名、いや、夏彦を撃ってしまったんだろう。発作的だった。

完璧になれなかった。あんなに、情熱的に、熱心にカウンセリングをしてくれて、慰めてくれたと思っていたのに。それなのに、夏彦が、わざと手術を失敗したなんて！！単に優越感を味わっていただけなの？！悔しい……悔しい！！あの頃、傷心のあの頃、一瞬でもひかれたからこそ憎い！

もういい。私は誰にも心を開かない。もう、決して。たとえ、克己であっても。あの約束も、何もかも、私には残らない！！

じっとり濡れた髪や頬、服がぴっちり体にはりつく。気配を感じた。夕夏はちらっと克己を見やると、黙って心臓に狙いをつけた。




克己は、冷たい雨の中で立ちすくんでいた。ぴたりと心臓に狙いをつけている、夕夏の愛銃が不気味に、黒い独特の鈍い光を放っていた。

「立ち去れ。さもないと……」


夕夏は低い声で警告する。克己はそれにかまわず、夕夏の隣に座り込んだ。避けようと体をよじる夕夏を、強く抱きしめる。そして、注意が散漫になったすきを狙って、夕夏の手から銃をもぎとった。

「やめろ！離せ！！情けなんて、いらない！」

「やめない。離さない。ねえ、プレゼントがあるんだ」

銃を取り戻そうとする夕夏の手をしっかり押さえて、克己はちょっとためらった後に、指輪……椎名から託された「８年前の忘れ物」をはめた。

白いしなやかな指に、上品な光を帯びた小さなダイヤモンドのリングがよく似合って、華やかさにあふれている。夕夏から、殺気が消えた。

「これは……」

―買っておいたんだ。あの時、渡そうと思って。

「買っておいたんだ。あの時、渡そうと思って」

「あの時……」


＊＊＊＊＊

「克己くん、どうしたの……？」

あすかは痛みに耐えながら、自分が爆発から救った克己に聞いた。克己は焦点の合わない目で、壁の一角を見つめ、手を動かしている。何かをとって、はめているしぐさ。そして、ぼそりとつぶやいた。

「買っておいたんだ。あのとき、渡そうと思って」

「克己くん……夕夏が、いるのね？」

克己は糸が切れたように脱力し、何もしなくなった。


＊＊＊＊＊


「だけど、あの時は渡せなかった」

「どうして？」

「夏彦が、夕夏を好きだと思っていたんだ。そして、夕夏も夏彦が好きだと……」

夕夏は克己から目をそらしたが、やさしい響きでこうもらした。

「……おバカさん」

克己はちょっと笑った。今までよりも、なんだか気持ちが軽くなった。鎖が解き放たれて……縛られていた心が、自由になって……。圧力のようなものが、感じ取れない。

「克己」さんは、「ここ」での行動や気持ちを放棄したんだ。

克己は直感した。

俺が、一つの人格として、行動できる。「克己」さんの意思ではなく、「結城克己」としての、俺の意思で。

それでも、「克己」の想いは、小川のようにゆるゆると流れ込んでくる。

まだ、「克己」さんは、何かを語ろうとしている。これは、記憶？いつの……そうか、８年前の……俺には、ないから？ありがとう。「克己」さんの気持ち、わかったよ。俺たち、やっと一人になれたようだね。

―もう、終わりだ。夢、覚めないで……。君が、俺になる……。

「８年分の気持ち、伝えたい。好きだよ。一緒にいよう」

夕夏はうつむいた。重い沈黙。それでも、克己は椎名を案じながら、返事を根気強く待ち続けた。
雨はどんどんひどくなっていく。克己は夕夏にそっと手をのばした。まるくて小さな肩を抱く。初めての経験のはずなのに、妙に手慣れたさりげない手つき。夕夏が変に思いはしないか、と不安になった、少年の克己。

だが、夕夏はされるがままだった。力の抜けた、まるで人形のようにやすやすと克己の腕に抱かれ、ちょっと顔を上げた。笑っているような、泣いているような複雑な表情。柔和な面立ち。やせていても、服の上から分かるかすかな丸み。幼さは残っていても、やはり大人の女性だった。

克己は、たっぷり水を含んだしっとりと重いつややかな黒髪をかきあげて、夕夏の顔をくっきりと浮かび上がらせた。あごの線をゆっくり指でなぞると、夕夏は目を閉じた。

「それは、あなたの気持ち？……それとも、もう一人の、現実の……」

続きは、辺りに響き渡る轟音でさえぎられた。地面が次々に割れていく。空間にも亀裂が走り、現実世界の「克己」の崩壊の兆しを見せていた。夕夏はするりと克己の腕から抜け出して、壊れていく辺りを見回している。克己ははっと思い出して、ジーンズのポケットから、椎名に渡された機械を夕夏に見せた。

「椎名さんが、これを」

夕夏は一瞬見ただけで、さっと青ざめ、それをひったくるとポケットにねじ込んだ。

「ねえ、それは……」

「克己」

夕夏が制した。その気迫に、克己は口を閉じた。

「あなたの隣室のドア……今から、開けるわ」

「え？」

「それが、椎名、いいえ……夏彦のメッセージよ」

「夏彦の？それは、いったい……？」

「彼の、覚悟よ。正確に言えば、『私たちの』覚悟」

簡潔にそれだけ答えると、夕夏は克己の手をとって駆けだした。マンションはそこだ。克己はなんのことか呑み込めないまま、共に階段を駆けあがる。

「ここね」

確かにドアはあった。ひびも入っていない。ほぼ完全な姿で残っていた。ただ、あの赤い手形は消えていた。

ドアノブに手をかける夕夏に、克己は聞いた。

「ここは、いったい何なんだ？」

「心の奥よ。正確には、『克己』のグレート・マザー、つまり「Great mother」、通称「М」が眠る場所」

「グレート・マザー？」

「心の支柱。私たちは、ここに眠る『何か』を消しにやってきた。『克己』を立ち直らせ、手術をして、治療するためにね。ここに来るのは、最終段階。ここは、他人や外界との最大にして、最後の絆なのよ。完璧な人間には、そんなもの、いらないから。……でも、私は、この中に何があるのか、知らない」

「今、ここを開けてどうするんだ？」

「ここを開けるのは、大きなリスクが伴うわ。でも、ここでないと、今の私には、あの機械の操作ができないの。グレート・マザーのエネルギーを借りるわ」

ドアがゆっくりと開く。少しきしんで、中の様子を少しずつあらわにしていく。暗そうだ。

夕夏がごくりと唾をのみ込んだのが分かる。思わず、克己はつないだ手を握りしめた。たちまち汗がにじんだ。

「行くわよ。気をつけて……」