隣人M

せめて人間らしく

「大丈夫か、椎名さん!!」


克己は椎名を抱き起した。額に張り付いた黒髪で椎名の顔がよく見えない。克己は、そっと指先で彼の先が細くなった髪をはらいのけてやった。椎名はその指先のかすかな動きに反応したかのように、少し目を開けた。そして、口元にかすかな笑みを浮かべた。


「夕夏の、せいじゃないさ……。もとからのケガのせいだ」

「なんで……椎名さんを銃撃するんだ……」

「俺にはわかる」

信じられないほどはっきりした声。椎名は1回せきこむと、遠い目で空を眺めた。

「なあ。完璧っていったいどういうことだと思う?」

「突然、何だよ……」

克己は面食らった。椎名が質問の語尾を上げなかったので、答えていいものかも迷う。

「この仕事に就く前に、いろいろ勉強をした……。心を治療するには、もちろん、その肉体についても深い知識を持っていなければならない。いつだったか……スクールで絵画の授業を受けた。人間の外観をきちんととらえることができるようになるための、必修単位だったんだ」

「絵を?……知らなかった」

「知るわけがないさ。つい最近のことだ。とにかく、俺は1年間デッサンの授業を受けた。興味はなかった。でも、モデルと向き合って描いていると、いろんなことに気づいてね。それから熱中した。俺なりの……一つの真理が確定しかかっている」

「何を言いたいのか、俺……」

いきなり絵の話を、とぎれとぎれに語りだした椎名の真意を、克己は図りかねていた。椎名の穏やかな目つき。まつ毛がかすかにふるえている。そして、ゆっくりと細く長い腕を目の高さにまで上げると、指で宙にやわらかなカーブをなぞってみせた。

「曲線があるんだ。こうやって……ゆるやかだったり、ちょっとゆがんでいたり……」

透明な指の軌跡は、人の横顔を形作っていく。

「なんで、こうやって曲線が描けるのか、考えたことはない?」

思わず目をぱちぱちさせる克己の様子を面白がるように、椎名は試すような視線を投げかけた。

「曲線というものが、記憶の中にインプットされているからさ。見た経験、書いた経験があるから。でもそれは、完璧な人間にはできないことのはずなんだ。いろいろな物事に左右されず、記憶に頼ったりしない、孤高の存在。それが、完璧な人間だからね。そしてそれは経験も例外ではない」

「でもそれは……」

椎名は目で制した。そして指を伸ばして克己の顔の輪郭をゆっくりなぞる。続いて、自分のそれも。

「俺の顔も、お前の顔も、もちろん全く違う。顔のつくりも、頬骨も、肉の付き方も。しかし、同じものがある。それが顔のラインさ。必ず曲線だからな。俺にしてみたら、こんなのは完璧な人間にはないんじゃないかっていう証明みたいなものだ。このラインのかすかなカーブ……そう、このあたりで、他の人間と共存しているような気がする。だが、完璧な人間というのは、他のものを求めはしないし、他と同じことを嫌う。……大多数の学派によれば、だけどな」

冷たいが、かすかにぬくもりのある風が、二人のほてった頬を撫でていった。

「完璧な人間なんて存在しないんだよ。いくら心を削っても、記憶を削っても。興味や好奇心、幸福感、疲労感をそぎとって、俺に残ったものはなにもない。…からっぽさ。人間のぬけがら。手術をして残ったのは、空虚感だけ……。お前が、正しかったのかもしれないな……あの戦場で俺を制した、お前が……」

「信じてたんだろ?他の人間の幸福を」

「しかし、結果的には、いろんな人間を、不幸にしちまった……」

目にいっぱい涙をためたあすかの顔が、椎名のかすむ目の前にちらついた。

「自分が信じてやってきたことなんだ。そこで、考えて、何ができるか、だろ?」

「……ふっ。ははは。ちっとも変わっちゃいない。やっぱり克己だよ」

「優しすぎるんだよ、夏彦は」

素直に「夏彦」という名を滑らせて、克己は顔を赤らめた。

「ごめん、椎名さん」

「いいよ。いいのさ。嬉しいよ」

「え?」

「いや……。さあ、早く夕夏のもとへ。あいつ、きっと泣いてる。俺の傷は気にするな、と伝えてくれ」

「でも、椎名さんが……」

「俺のことはいい。ここにいる。ここで待っているさ。ずっとな」

克己はしばらくうつむいて、涙をぐっとこらえた。なんだかひどく悲しかった。そして、塩辛さがほのかに感じられる、冷たいしずくを飲み込み、椎名の目を見た。はじめて対等の位置から見つめる彼の瞳の奥は、うつろだが、何かが渦巻いている。

「行け。あいつが待っている」

「……分かった。少し待ってて」

「待て、克己。これを持っていけ」

椎名はポケットをさぐって何かを取り出し、克己に投げやった。克己は右手でしっかり受け止め、手のひらをそっと開いてみた。小型の機械だ。何に使うものかは分からない。

「これは?」

「夕夏に見せればわかる。さあ、克己。きちんと、「あれ」を渡せよ」

椎名は脂汗が流れる顔を、必死に笑みでごまかす。克己は無言で彼の手を握りしめると、砂の上を駆けていった。


椎名の目の前に、心療手術を執刀してくれた医師が、自分の希望を聞いてせせら笑ったあの時の姿が現れた。

「記憶を残す?そんな話は聞いたことがない」

40代後半と思われたその医師は、はげかかった薄い頭髪がはりついた頭を揺らし、突き出した腹を抱えて笑った。そして、ぼってりした厚い唇をなめつつ、野太い声を張り上げた。

「君は心療外科医の卵だろう。何を考えているんだ!!」

椎名の根気に負けて、しぶしぶメスを握った彼の言葉も、同時によみがえる。

「君は完璧にはなれん。心療外科医の資格を得ることもできないかもしれない。そうすれば、ただのもぐりにしかなれんのだ。優秀な君のことだ。何か考えがあるんだろう。……後悔しているんじゃないのか。後悔したら、いつでも来るといい。再手術を考えてあげよう」


その時の椎名は、ただ力なくほほえんだだけだった。だが、今の彼は、か細いがはっきりと言えた。彼は自らの幻影……過去の記憶に向かって答えた。

「後悔なんかしていませんよ」

そんな椎名の鼻筋に、冷たいものが落ちてきた。

「雨か……?なぜ?泣いているのか、克己……?」

雨は驟雨から、激しさを増していく。しかし、椎名の体は濡れなかった。彼は、自分の頭上だけ葉が青々と茂り、枝が複雑に伸びて樹が傘の役目を果たしていることに気付いた。

椎名は、できるだけ腰をねじらず、腹を守りながら体の向きを変え、耳をぴたりと木肌につけた。

「生命の……鼓動が、聞こえる……」

ココア色のざらざらした木肌は、確かに冷えていく彼の手にはかすかなぬくもりが感じ取れた。

最後に聞いた、耳に残っていた夕夏の問いかけ。即答できなかった自分……。

「あなたは、本当に克己を手術したいと思っているの?」

椎名は、夕夏に語りかけるように、やさしくつぶやいた。

「いや……。俺の負けだ、夕夏。お前は克己のものだよ」

そして、椎名は、声にならない声をふりしぼって、こう言った。

「せめて、人間、らし、く……」

フェードアウトしていくその声は、雨音でかき消されていった。木の葉が、名残惜し気に、椎名の体の周りをゆっくりと舞うと、閉じられたまぶたをやさしく撫でて、そのまま音もなく落ちていった。







 
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