キスでさよなら~マジョの恋


 イヤな夢。思い出したくないことを、何度も何度も繰り返し美紀に見せつける。
 あれからもう何年もたった。大学を卒業し、就職して三年目。
 なのに、あのころの自分がすぐ後ろに立っているような気がして、美紀はうんざりした。職場でも、高校の時とかわらず、マジョさんと呼ばれているのが我ながらおかしかった。
 天然パーマを押さえるために、髪を固くひっつめて、メイクもほとんどしない。度が進んで新調したメガネは、やっぱり黒。ほかにひかれるものもなく、なんでもよかった。
 親しくつきあう人もなく、本があればいい。そんな性格が、人を寄せ付けないこともわかっている。美紀が心を開いてみれば、同僚たちとももっとよい関係がつくれるかもしれない。
 でも、こわい。からかいでキスをされた時のように、人は時にひどい仕打ちをする。されたほうが、どれだけ傷つくのか、思いもせずに、ただ気に入らないから、そんな理由で誰かを傷つけて、あとはさっぱり忘れてしまうのだ。
 
 


 「そんなに不満?」
 大きなため息をついたとき、それを聞きとめた男がちらりと美紀を見た。
「不満だらけです」
 美紀は赤いクーペの助手席で、もう一度ため息をついた。
「仕事と関係ないじゃありませんか。一社員の私が、社長の連れとして出席するなんて、無謀です。だいたい、なんで私が・・・・・・」
 和光明は、つぶやくように言った。
「無謀ねえ。マジョさんは、言葉の使い方をまちがえてる気がするな。無謀って言うのは、深い考えがない、成功する見込みがないっていうとき使うんだ。きみ、国文学専攻だろ。人には、いつもあいまいはやめろと言うくせに」
 一言多い。この人と話すと、いつも美紀はペースを乱されてしまうのだ。
「だから、言ってるんですよ。例の彼女と行けばいいじゃないですか」
「振られたよ、きのう」
「花束はどうしたんです。渡せたんでしょ」
「薔薇アレルギーなんだって」
 あっさり城田は言い、それきり気まずい感じの沈黙が車内に満ちた。
(で、補欠の登場というわけ)
 美紀はこっそり息を吐いた。
 補欠も補欠。最後の砦というやつだ。雇われの身で、社長のお願いを断る度胸は美紀にはない。というよりも、どこか憎めないこの人が、美紀に頭を下げてみせるところを、ほかの社員にみせたくないというのが実状だ。
「社長の弱みでも握ってるの?」
 好奇心をおさえきれない顔つきで、同僚にそう聞かれたとき、美紀は本当に返答に困った。弱みなど、この人には、ない。ある目的があって、それを果たすためならば、頭の一つや二つ、下げることなどなんとも思わない。ただそれだけのことだ。
 今夜のパーティーに誘う相手が、どうしても見つからなかったのだろう。パートナーなしで行くという選択肢は、彼にはないようだった。
「格好がつかないだろ」
 「マジョさん」を伴うのはかまわないと言うのか。理解に苦しむ。電話ひとつで、もっと見栄えのする相手を呼ぶこともできるはずなのだ。
 首都高をすいすいクーペが走る。金曜の夕方にしては、すいているほうだ。危なげない運転だけれど、時々ひやっとするときがある。急に前に車が入ってきたり、ウインカーなしで割り込んだりする車があると、けたたましくクラクションを鳴らす。
「スピード出しすぎです。もっと余裕を持って運転してくださいよ」
 たしなめると、彼は言い返した。
「だって、割り込まれるのは、嫌いなんだ」
 どうも子どもっぽい。この言動を、彼を「カリスマ」としてもてはやす各方面の人たちに聞かせてやりたいくらいだ。
 和光明、年齢二十七歳。名の通った大企業に就職後、わずか一年で退社、会社設立にいたる。その後、「二年で上場してみせる」と雑誌の取材に大言壮語、みごと有言実行して、順調に成長を続ける会社をひきいている。
(うまくいっているから、いいようなものの)
 美紀は言うなれば、明のお目付役だった。秘書と言ったら聞こえはいいが、ようは便利屋だ。
 明は会社を立ち上げて、休日返上で朝から晩まで働いていた。鬼気迫るありさまだった。
 美紀が彼の元で働くようになったのは、まったくの偶然と言っていい。高校時代の恩師に、大学卒業を機に挨拶にいったら、明と出会った。彼は独立したばかりで、スタッフを探していたのだ。
 思いついたように誘われて、翌日から出社。人もまだ少ない当時は、経理から人事、法務、もちろん雑用も、見よう見まねの四苦八苦でなんとかこなしてきた。
 明の誘いに乗ったこと。それがよかったのか悪かったのか、今でもよくはわからない。
 ただ、退屈とは無縁の生活であることだけはたしかだ。 
「さあ、着いた」
 明が車を止めたのは、とあるサロンの前だった。
「ここ、ですか?」
「予約してあるからね」
 入るのに気後れしている美紀を引っ張って、明はドアを開けた。
 一面青く塗られた壁は涼しげだ。白い大理石の床はぴかぴかで、顔までうつりそうなくらいだった。
「まあまあ!」
 ほどなくして素っ頓狂な声が響いた。中二階から階段を降りてきたその人は、明の頬を長いつけ爪でなぞった。
「城ちゃん、こんにちは。ごぶさた」
 180センチ近くある明より、頭一つ分さらに大きい。美紀は思わず後ろにさがった。細身にあっさりした麻のジャケットとパンツという出で立ちで、シンプルだがひどく似合っていた。坊主にできるのは、頭の形がいいからだ。鋭角の耳たぶに光る小さなピアス。
「こちらは、お連れさん?・・・・・・まあ、もっさい子」
 美紀はうつむいた。事実だ。でも、しみじみと言われると腹が立つ。
「どんな子でも、磨けば光る、そうでしょ。北条さん」
 明は言った。そこで、はっとした。どこかで見たことがあると思ったら、この人は、北条時男だ。きついダメだしのあと、クライアントを劇的に変身させるという番組によくでている。口癖は、たしか、「もっさいわ」だ。美紀は顔がひきつるのを感じた。
「じゃあ、おれは近くで用事すませてくるから。よろしくお願いしますね、北条さん」
 明はさっさとサロンを出ていった。
「マジョさん、しっかりきれいにしてもらいな」
(よけいなお世話・・・・・・!)
 あとには辛口ファッション評論家と、ダメだしポイント満載であろう美紀が取り残された。
「ふーん」
 北条は、じろじろと美紀を値踏みした。
「あんた、明ちゃんのなに?」
「秘書、のようなものです」
「へえ、そう。よくそんな格好で、あそこの秘書がつとまるわね」
 居心地の悪さに耐えきれず、美紀は声を上げた。
「あの、私はやっぱりいいです」
「なにがいいっての? そのもっさい格好のまま、うちの店から出られると思ったら大間違いよ。あんた、ところで一日に何回みる?」
「何ですか?」
「鏡よ、鏡」
 朝起きて、ざっとメイクして、昼休憩にトイレで見て、夜に歯磨きしながら。
「・・・・・・三回、かな」
 声にならない悲鳴が、北条のつやつやの唇からもれた。
「小憎らしいわね。女をあきらめてるじゃないの。ほんとにもう、ちょっと、こっち来なさい!」
「いやです。女もあきらめてなんかいません」
 美紀は大きな鏡の前に引っ立てられた。
「とっくの昔にあきらめてるでしょ、もったいないオバケでるわよ。なにこの髪。あーあーあ。ワックスでがちがちに固めるなんて信じられない! それに、この肌。ちゃんとお手入れしてないでしょ。せっけんでじゃぶじゃぶ洗顔して、ごしごし拭いちゃってる? 汚れた床みたいなのも納得ね」
 ただ、怒りだけがわいてくる。
「それに、この服。あのね。服は体にくっついてればいいってもんじゃないの。TPOってものが」
「それくらい知ってます」
 言い返すと、ほっぺたをつねられた。痛い。
「どの口がそういうことを言うわけ。このシャツの襟と袖型、はい、三年前にはやりました。このスカート、ちょ、おばーちゃんの原宿で買った? パンプス、ヒールに傷ぅ。靴裏ほとんどすり切れてるじゃない」
 シャツは着慣れて心地いいお気に入りだ。スカートだって、譲ってもらったものだけど、落ち着いていて好きだ。足になじむパンプスがなかなか見つからなくて、傷があることは知っていたけれど、はきつづけていた。
 わかってる、雑誌に載っているようなキレイなファッションでないことくらい。わかってる、髪の毛にかまうことも、肌のお手入れを怠っていたことも。でも、それを見ず知らずのオカマに言われたくない。
「もう、いいですから!」
 美紀は声を上げた。腕を振り払って、美紀は出口に向かって歩き出した。
 こんな店、あと一分だっていられそうにない。
「ねえ」
 背中に、おかしそうな北条の声が投げかけられた。
「社長命令なんでしょ?」
 美紀はドアにのばそうとした手をとめた。
 出て行きたい。振り返りたくなんてない。
「マジョさんって、いつまでもそう呼ばれててかまわないわけ?」
 美紀は目をみはって、ごくんとつばを飲んだ。
「あたしにトータルでコーディネート頼みたいって人はね、一年前くらいから予約してもらってるの」
 トータルというとき、やけに発音がいい。
「明ちゃんには昔、とっても世話になったことがあるから、特別時間とったけど。ねえ、これはチャンスなんだって気づいてる?」
 チャンス。
 その言葉が、なぜか心を揺さぶった。

「マジョとチューしたい人!」

 残酷な声が、耳の奥によみがえる。
 もう少しキレイだったなら。「美女木美紀」の名を聞いて、クラスメイトたちが笑わないくらいの容姿の持ち主だったなら。
 堂々と、あの人と会い続けることができたかもしれない。
 からかいで突き飛ばされることも、なかったにちがいない。
 後味のわるい最悪のファーストキスを思い出して、美紀は唇をきつくかみしめた。
(やってもらおうじゃないの)
 振り返って、北条の前に戻った美紀は、勢いよく頭を下げた。
「よろしくお願いします」
 やれるものなら、やってみろ。殊勝な気持ちなどない。挑戦状をたたきつけている気分だった。
(この二十何年もののコンプレックスを、トータルにコーディネートしてもらおうじゃないの)
 北条はつけまつげをした目をぱちぱち瞬きさせたあと、にっと笑った。
「望むところ。さあ、時間はないわよ、始めましょ」
 
 それまでどこに待機していたのか、北条が一声かけると数人の男性が美紀にかしずくようにそばに立った。髪には丁寧にパーマがほどこされた。
「はい、さっぱりお嬢様系メイク、完成」
 顔ができあがったあと、メガネを再びつけてみると、美紀は鏡から目を離せないまま、思わず声を上げた。
「わあ!」
 魔法のようだった。
 メイクだけでこれだけ印象が変わるなんて。眠そうだった目が、ぱっちりと大きく、輝きをまして見えた。ぼさぼさの眉は細く優美にカットされている。唇はみずみずしい果物みたいにおいしそうだ。チークがほんのりと頬を染めている。黒縁のメガネだけが、なじみのもの。そのほかは、もういっそ、顔ごと誰かと取り替えでもしたみたいだ。
「そのメガネ、預かるわ」
 メガネがはずされると、再び視界はもやがかかったようになった。
 北条の言ったことは、あながちはずれてはいないのかもしれない。
 女であることを半分以上あきらめてきたのではないだろうか。
 キレイでありたいと願うこと。自分に手をかける、ということを、美紀はあえてしてこなかった。見ない振りをして、過ごしてきた。
(これが、私・・・・・・?)
「お手をどうぞ」
 一度もマニキュアすら塗ったことのない美紀の爪に、きれいな桜色のネイルが貼られていく。
(やめよう。今は)
 何も考えたくない。
 美紀はただ、目を閉じた。

 
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