泡沫(うたかた)の虹
「番頭さん、申し訳ありません。もっと、あたしがちゃんと確かめておけばよかったんです」

今にも泣き出しそうな菊の声を聞きながら、嘉兵衛は手ぬぐいを取り出している。それを器用に口で裂くと、彼は手早く糸のポックリの鼻緒を直していた。

「さ、これで大丈夫でしょう。どうですか?」

嘉兵衛のその声に、糸はコクリと頷いている。その彼女の様子を見た彼は、スッと手を差し伸ばす。その手につかまるように、彼女はゆっくりと歩き始めていた。


◇◆◇◆◇


「旦那さま、何を考えてらっしゃいます?」

馴染みの遊女である胡蝶(こちょう)がしなだれかかりながらそう言ってくるのに、嘉兵衛はふと我に返っていた。そんな彼の様子を胡蝶は楽しそうな顔で眺めると、スッと煙管を差し出す。

「旦那さま、一服いかがですか?」

「あ、ああ。貰おうか」

そう言いながら煙管を受け取る嘉兵衛の胸に、胡蝶は頭を預けている。そのまま、彼の胸板にゆっくりと手を伸ばした彼女は、甘えるような声で彼に囁きかけていた。

「それはそうと、お店に新しくきたお方。弥平次さんとかいいましたっけ。ずいぶんと目立つお方のようですわね」

胡蝶の口ぶりが何かを含んでいると感じた嘉兵衛は、何事かというような顔を彼女に向ける。そんな彼の様子を楽しむように、胡蝶は言葉を続けていた。

「いえ、うちの婢(はしため)たちが騒いでいるんですよ。それに、扇屋さんの若旦那といえば、ちょっとは名前の知られた方でしたよ」

そう言うと、胡蝶は嘉兵衛の反応を楽しむようにその顔を覗き込む。そんな彼女の様子に苦笑いを浮かべた嘉兵衛は、煙管を煙草盆に置いていた。

「あたしにそんなことを言って、どうするんだい。今の弥平次はよく働くいい男だよ。それに、若い頃は誰だって遊びたいもんだ。そうじゃないかい?」

「それはそうでございますね。だって、旦那さまもあちきとこんなことをなさいますからね」

そう言うと、胡蝶は楽しそうにコロコロと笑い出す。そんな彼女を腕に抱いた嘉兵衛は、別の相手のことを考えている。そのことを胡蝶はよく知っているが、それを口にしようとはしない。

彼女は自分が彼にとってどういう存在なのか、よく知っているからだ。だからこそ、彼女は嘉兵衛の耳にあることを囁きかける。

「旦那さま、用心なさいませ。このままだと、旦那さまのお望みは叶いませんわよ」

その声に、嘉兵衛は口をへの字に曲げ、煙管にまた手を伸ばす。そのまま、彼は不機嫌そうな声を胡蝶に投げかけていた。

「お前は、何の事を言っている? あたしの望みをお前は本当にわかっているのかい?」

嘉兵衛の問いかけに、胡蝶は当然という顔を浮かべている。その手はしっかりと彼の胸板をつかみ、その厚みを確かめるようにゆっくりと動かされる。

「ええ。あちきにはよくわかっておりましてよ。そして、それを邪魔するなんて無粋なことをするはずもございません」

「胡蝶、その言葉は本当のことかい?」
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