泡沫(うたかた)の虹
胡蝶の言葉を疑っているわけではない。それでも、嘉兵衛は思わずそう呟いている。そんな彼に、胡蝶はクスリと笑いかけるだけ。

「当り前じゃありませんか。あちきは、こうやって旦那さまがやってこられるのを待っているだけ。でも、それでいいんですよ。だから、旦那さまは思ったようになさってくださいな」

そう言うと、胡蝶は嘉兵衛にますます強くしなだれかかる。その勢いで彼女の白い足が着物の裾からこぼれ出す。それを見た嘉兵衛は、先日、鼻緒を直すために糸の足に触れたことを思い出していた。

彼女の足も胡蝶のそれと同じように白く、美しかった。それを考えた時、嘉兵衛は自分の中で首をもたげてくる感情を抑えることができないでいた。

「胡蝶、夜は長い。楽しませろ」

「はい、旦那さま」

嘉兵衛の声に、胡蝶は甘えるような声で応えている。そんな彼女の肩を嘉兵衛はしっかりと抱きよせ、その上に覆いかぶさっていた。


◇◆◇◆◇


「弥平次、頼んだからね」

「はい旦那さま。それでは、行って参ります」

清兵衛と弥平次の間で交わされるその声に、嘉兵衛は首を傾げていた。たしかに平次は主人の商売仲間の息子だが、今は井筒屋の手代でしかない。

そんな彼に、主人が頼みごとをする必要があるのだろうか。

そんな思いが嘉兵衛の中には生まれている。それを清兵衛は敏感に感じているのか、どこか楽しそうな表情で嘉兵衛をみつめていた。

「旦那さま、弥平次に何を頼まれたのですか?」

どうしても好奇心を押さえることのできなかった嘉兵衛は、そう訊ねることしかできない。そんな彼の姿に、清兵衛は笑いをこらえるのを必死になって、辛抱する。

「旦那様、どこがそんなにおかしいのですか」

「いや、お前がそんな風に訊ねてくるのが、珍しいと思っているからだよ。いつもなら、気にもしないことだろう」

「それは、たしかにそうかもしれませんが……」

清兵衛の言葉に、嘉兵衛の返事はどこか歯切れが悪い。彼にしても、清兵衛が声をかけていたのが弥平次以外なら、こんなに気にはしていない。しかし、清兵衛が声をかけていたのは彼なのだ。

馴染みの遊女である胡蝶に囁きかけられたこともあるが、彼自身、弥平次に微かな対抗意識を持っている。それは、彼が勘当状態とはいえ、井筒屋と同じくらいの大店の若旦那だったからだ。

ひょっとすると、糸を盗られるのかもしれない。そんな思いが生まれ始めているが、今の彼はそれを無視している。あくまでも穏やかな番頭という表情を崩さずに、主人の相手をしていた。

「それよりも、お嬢さんのお迎えにまいりましょうか」

ふっと話の向きを変えるように、嘉兵衛はそう呟いている。普段では考えられることではないが、今の糸は一人で外にいる状態。そして、外が急に暗くなっている。この調子では雨になるだろう。

そうなる前に、糸を迎えに行った方がいいのではないか。
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