ふるさとの抵抗~紅い菊の伝説4~

消失

 その日、翔は久しぶりにきれいに洗われた服を着て公園に来ていた。今日は機嫌がいいのか、香は彼に対してとても優しく接してくれていた。砂遊びをして洋服を汚してしまっても母は優しく微笑んでくれていた。
 翔は嬉しかった。何よりも母が優しくしてくれることが、嬉しかった。自分が見捨てられないのだということを感じられることが嬉しかった。
 翔には一緒に遊んでくれる友達はいなかった。
 いつもあの散らかった部屋で母の顔色を見ながら過ごしていたからだった。母に見捨てられないように、ただそれだけを望んで、どんな痛い目に遭わされても彼女のそばを離れなかった。
 翔にとって香という母が全てだった。父が二人をおいて出て行き、彼に残されたのは母一人だけだった。その母も目を離したら消えてしまいそうな強迫観念に翔はいつも襲われていた。だから一生懸命に「いい子」でいようとしていた。そうすれば母はいつまでも傍にいてくれる。鬼のようになって母が怒るのは、自分がまだ「いい子」ではないからなのだ。「いい子」でなければ母も父のようにいなくなってしまう。だから翔は必死になって香にしがみついているのだ。友達を作っている余裕は、翔にはなかった。
 自然、翔には一人遊びが身についていた。
 自分の影に話しかけ、相づちを打ち、会話をすることが身についていた。
 そんな彼の姿を見て時に香は翔を気味の悪い者を見るような視線を浴びせてくることがあった。だが、翔はそれをやめることが出来なかった。そう、翔には友達がいなかったからだった。
 その翔の姿を少し離れたところから佐伯絵美がじっと見つめていた。絵美は時折公園に姿を見せるこの少年を何故か注意してみていた。友達と遊ぶ訳でもなく、洋服が汚れることを極端に気にしている。常に何かに怯えているようにおどおどしている。 
 子供らしくない子供、絵美にして翔はそんな印象を与えていた。
 でも、今日は普段と表情が違う。どことなく明るくてリラックスしているように見える。
 今日なら声をかけても良さそうだ。きっと逃げ出したりはしないだろう。絵美には確信にも似た気持ちがあった。
 絵美はゆっくりと翔に近づいていく。
 その気配を感じたのか、翔は揺らしていたブランコを止めて絵美の方を見上げた。
「お姉ちゃん、誰?」
 翔の瞳が絵美を捕らえ、次に香に向かった。香はそれを微笑んで返した。翔の顔が明るくなる。
「お姉ちゃんはねぇ、佐伯絵美っていうんだ」
 絵美は翔の隣にあいているブランコに座った。塗り替えられたばかりの水色のチェーンが微かに揺れる。
「君はなんていうの?」
 翔はまた母の様子を浮き上がってから「僕、翔っていうんだ」と答えた。
「そっか、翔君っていうんだ。なんだか今日は嬉しそうだね」
「うん、お母さんと一緒なんだ」
 翔はそう答えると少し離れたベンチに座っている香に手を振った。
 香も手を振り替えしてくる。
 それを見ていた絵美は翔の身体にある変化が現れたのを見た。母親に振っている手の指先が揺らめき始めたのだ。
 どこからか『とおりゃんせ』の唄が聞こえてくる。
 翔の身体の周囲にある空気が陽炎のように揺らめき始める。
『とおりゃんせ』の唄を訊くと消えてしまう…。
 あの噂が絵美の脳裏に浮かんだ。
 空気の揺らぎが大きくなる。
「駄目…」
 絵美の口から言葉が漏れる。
「そこに居ちゃ駄目!」
 絵美は叫びながら、大きく揺らぐ空気の壁の中にその身を投じた。
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