ふるさとの抵抗~紅い菊の伝説4~
 空の高いところ、九朗は翼をいっぱいに広げて暖かい空気の中を漂っていた。日の光は柔らかく彼の白い体を照らしている。近くでヒバリの声が聞こえている。
 彼はこの季節が好きだった。ゆったりと眠気を誘うような空気、それは冬の指すような風とは異なり、彼の羽毛の間を擦り抜けていくからだった。
 ここから下界を見下ろすとこの街の様子が良くわかった。ベッドタウンとして開けてきた街とはいえ、まだまだ里山や田畑は残されている。しかしそれらは削られ、埋め立てられて、人間たちの巣である高く四角い建造物に変わっていく。狭くうねっていた道はその幅を広くさせられ、まっすぐな道へと変わっていく。それはきっと人間たちにとっては住みよい塒(ねぐら)なのだろう。しかし、古くからそこに住み着いてきた他の生き物たちにとって果たしてそうといえるのかどうか。人間たちの手によってふるさとと呼ばれるものは急速に失われていく。それが果たして良いこのなのか、九朗にはわからなかった。
 これまで出来る限り人の手には頼らないで生きてきた九朗であったが、今は『紅い菊』という人間の、精神的な存在の使い魔として生きている。この生き方もまた、人の手に落ちた生き方ではあるまいか、その生き方はあり得るのだろうか、九朗は自問自答していた。
 そんなとき、遙か下界から人間の雌が発する甲高い叫び声が九朗の注意を引いた。
 彼はその方向に目をやった。
 するとそこには見たこともない翼を持った生き物が人間の雄を襲っているのが見えた。
 そして、その傍らに叫び声を上げたと思われる人間の雌がいた。
 九朗はそれらがよく見えるように高度を下げていった。
 そうして人間たちの顔立ちが判別できる高度にまで来ると、その人間たちが『紅い菊』の知っているものであることがわかった。
 九朗は急降下をして翼を持った生き物に向かって突き進んだ。
 そして、そのイメージを『紅い菊』に送った。

 碧眼の黒猫、魔鈴はいつもの日課である縄張りの確認を行っていた。
 塒(ねぐら)である美鈴の部屋を出て周囲1キロメートルほどを歩いて回る行為だった。
 そうしている中で数軒の民家を訪れ、そこにいる人間たちを確認して回る。これもまた縄張りの異常を見つける大事な行為の一つだった。それは決して急ぐことはないものだった。何しろ魔鈴にとって時間は十分にあるのだ。ゆっくりと彼女たちのためにあるようなキャットウォークを歩いて行けばいいのだ。
 途中、この辺りを取り仕切っている同族の長に出会った。彼は今日も春の日差しを全身に浴びてうつらうつらしている。かれこれ十歳を超えた彼には眠ることが仕事のようになっていた。それでもまだ長でいられるのには理由があった。彼にはいわば徳というものがあったのだ。弱気ものを助け、それを害するものと身を挺して戦うという姿勢が彼を今の位置に座らせていた。若いときの彼にはかなりの武勇伝があった。魔鈴もこの土地に来たばかりの頃に他の同族たちからよく聞かされたものだった。それ故に彼女もこの長には一目を置いていた。
 魔鈴は長に軽く会釈をすると公園の方に足を向けた。
 そのとき、人間の雌の叫び声が空気を切り裂くのを聞いた。
 何かが自分の縄張りを汚そうとしている。そう感じた魔鈴は声のした方に向かって駆けだした。
 そこには人間の雄と雌とがそれぞれ一個体づついた。
 そして、その個体を翼の生えた獣と触手を生やした獣が今にも襲いかかろうとしていた。
 魔鈴は足音を立てずにそれらに近づいていった。
 そして人間たちの顔を見た。
 それらの個体は『紅い菊』の見知った個体たちだった。
 魔鈴は触手を生やした個体の向かって鋭い爪を出し、牙を剝いて走り出した。
 そして、そのイメージを『紅い菊』に送った。 

「…!…」
 突然二つのイメージが同時に美鈴の脳裏に送り込まれてきた。
 学校からの帰り道、啓介と共に歩いていたときのことだった。
 一つは空中戦のイメージ、もう一つは地上戦のイメージだった。
 普段九朗と魔鈴は別行動をとっているので、二つのイメージが同時に伝えられることはまずなかった。それが今、二つのイメージが伝えられている。
 それぞれ見たこともない生き物と闘っていた。そして、その近くに佐枝と義男の姿が見て取れた。
 恐らく魔鈴と九朗はこの二人が襲われているところに出くわしたのだろう。それで闘う羽目に待ったのだ。
 美鈴は瞬時にそう判断して、彼らが闘う場所へと駆けだした。
 走っている内に彼女の髪は逆立ち、瞳は紅く燃えだした。そして彼女が変化して行くにつれて走る速度が増していった。
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