ふるさとの抵抗~紅い菊の伝説4~
「…!…」
 静かな夕方、美里は突然脳裏に浮かんだ強い意志の力に驚き、ノートパソコンに原稿を打ち込んでいた手を止めてしまった。彼女の手を止めたそれはとても強い憎悪の力だった。そしてそれは彼女が知っていた意志のものだった。
「ハーリーティ…」
 思わず美里の口から子供たちの魂を保護していた『もの』の名前が漏れた。
 遠くから伝わってくるハーリーティの思考は人間達に対する憎悪で満ちていた。そしてそれは強大な破壊の意志を持っていた。
 一体何が起こったのだろう?
 美里はハーリーティの心変わりに疑問を持った。以前会ったときにはこれほどの強い感情を彼女は持っていなかった。むしろ慈愛に満ちた存在だったのだ。それをこれほどまでに変化させてしまうにはそれなりの理由があるはずだった。美里はそれを知るためにハーリーティの意識の中に深く入り込もうとした。
 しかし、それは容易なことではなかった。
 ひとつには距離が離れているということもあったのだが、それ以外の要素が加わっていたからだった。
 ハーリーティの意志はひとつではなかった。
 彼女の意識の他に複数の『もの』の意志が彼女のそれを取り巻いていたのだ。
 それは人間に対して強い憎悪とそれが作った社会に対する破壊の衝動に満ちていた。そしてそれは人間の魂ではなかった。
 その『もの』は多くの獣の意識で出来ていた。怒り、苦しみ、憎んでいる意識の集合体だった。その中にハーリーティの意識があるのだ。
 しかも彼女の意識はこの獣たちの意識の中に取り込まれようとしていた。そのために今はただ単に人間達に対するハーリーティの憎悪だけが美里に感じることが出来たのだ。
 だが、それではハーリーティは破壊を続けるだけだった。これを解決するためには彼女が何故、何に対して怒っているのかを知る必要があった。
 美里は精神を集中させて『もの』の集合体の意識の深いところに降りていった。
『もの』の集合体は様々な種類の獣の魂が集まって出来たキメラだった。そのキメラの中には肉体を持った存在がひとつ、中心の核をなしているようだった。ハーリーティの意識はその核の近くに存在していた。
 美里はその姿を確認するとハーリーティに呼びかけた。何度も、何度も、辛抱強く呼びかけ続けた。だが、それに対する返答はいっこうになかった。 既にキメラの意識の中に取り込まれてしまったようだった。
 美里は意識下の中で手を伸ばし、ハーリーティの一部に触れた。
 ハーリーティの意識が濁流となって美里の中に雪崩れ込んでくる。その情報の多さと激しい怒りの感情に美里の心は一瞬拒否反応を起こそうとした。それは自らの心を維持するための自然な反応だった。しかし、今はそう言ってはいられない。美里は激しく雪崩れ込んでくるハーリーティの意識の全てを受け入れた。
 ハーリーティの意識の流れはこれまで彼女が体験してきた記憶の気泡を無数に持っていた。彼女の誕生、多くの彼女の子供たち、人間の子供を食らっていた頃の記憶、仏陀によって諭され生まれ変わった彼女の意志、口減らしなどのために放棄された子供たちの魂を救う場所を創ったこと、そして虐待されていた子供を救おうとしたこと、そして…。
 ハーリーティの意識を辿っていた美里はそこで思いもかけなかったものに出会ってしまった。
 彼女の記憶は虐待から保護した子供の一人が母親の手によって命を落としたことを物語った。美里達が彼女と交わし、それを受け入れさせた約束がいとも簡単に破られてしまったことを美里は知った。
 これでは彼女が怒るのも無理はない、美里は彼女の意識から離れながらそう思った。
 しかし、それだけのことで彼女が強う破壊の衝動を持つに至ったとは美里には思えなかった。恐らくキメラの意識と接触したときに、彼女の衝動は極端に増大されてしまったのだろう。
 ハーリーティの意識を離れていく美里の脳裏に、不意にキメラの見ているイメージが飛び込んできた。
 それは学校の裏の里山を削って出来た工事現場が破壊されていく姿だった。そこには多数の人間の姿があり、キメラはそれらを傷つけ、命を奪っていた。その中にはキメラに抵抗する『狩人』達の姿があったが、彼らもまた、キメラの犠牲になっていた。
 このままではいけない。
 美里はフルフェースのヘルメットを手に取るとアパートの部屋を飛び出した。
 赤い二五0CCが矢のように走り去っていく…。
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